病床からの活動
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1959年、膀胱癌を患ったが、手術は費用対効果がよくないとして、通常の治療に代え放射線治療を受けた。死を意識するようになったシラードは、入院中も病床からさまざまな活動を続け、核抑止の論文を仕上げるとともに、回想録や短編集『イルカ放送』 の口述を行った。個室にはジャーナリストや他の科学者が忙しなく訪れ、シラードは「衰えた癌の犠牲者というより、くつろいだ丸顔のローマ皇帝」のようであったという。また、ソ連のフルシチョフとの手紙のやり取りを通じ、1960年のフルシチョフの訪米時には一時的に病院を離れて2時間の会談を行っている。ここでは終戦直後から訴えてきた米ソのホットラインの開設などを提案し、これはキューバ危機の後に実現することになった。 1960年にはアルバート・アインシュタイン賞 (Albert Einstein Award) を、またウィグナーとともに平和のための原子力賞 (Atoms for Peace Award) を受賞し、さらにアメリカ人道主義協会 (American Humanist Association, AHA) によって「今年の人道主義者」(Humanist of the Year) に選ばれた。当初シラードはこの年の大統領選で勝利したケネディに期待を寄せたものの、1961年のピッグズ湾事件やベルリンの壁建設への対応、そして核戦争勃発直前の事態に及んだ1962年のキューバ危機によって失望を味わうこととなった。 1961年には『イルカ放送』(The Voice of Dolphins)という SF 的な短篇集を出版し、冷戦下における科学と政治についての彼の世界観を開陳している。 退院後の1961年にシラードは『我々は戦争への道を歩んでいるか?』(Are we on the road to war?) と題した講演を行うとともに「現時点でワシントンでは英知が勝利する可能性はない」と断じて、核戦争の脅威を警告し、 合理的な軍縮の方法を模索することを目標としてロビー活動を行う政治的目標を明確にした科学者などによる組織「戦争廃絶のための協議会」(Council for Abolishing War)を設立した。ほどなく「住みやすい世界のための協議会」(Council for a Livable World)と改称したこの組織には、過去に委員としてハンス・ベーテやカール・セーガンなども務めており、連邦議会選挙に際して特定の議員を支援している。 1964年2月にソーク研究所の終身フェローとなりカリフォルニアへ移ったが、5月30日、就寝中の心臓発作のため66歳で他界した。遺灰は故郷のブダペストに送られその地で埋葬された。1974年にアメリカ物理学会は社会貢献の分野で物理学の発展に尽くした人物に送られる賞として「レオ・シラード賞」(Leo Szilard Lectureship Award) を創設した。また彼に因み、月面の裏にある直径 120 km あまりのクレーターに「シラード」(Szilard) の名が与えられた。
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