田淵監督時代
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「福岡ソフトバンクホークス」の記事における「田淵監督時代」の解説
1990年 開幕直後に投手コーチの中西勝己が休養。6月には勝ち星のなかった山内和と中日・杉本正ら2選手とのトレードやメジャーで実績のある抑え投手・リッチ・ゴセージを獲得。また巨人で一軍経験のなかった本原正治は5勝と奮闘した。田淵はウィリー・アップショー、バナザードと確執を起こし、両外国人はシーズン中に帰国・退団。4月3勝12敗、5月6勝16敗1分と低迷し、4年ぶりの最下位。チーム打率・本塁打・得点・失点・防御率はすべてリーグ最下位。パ・リーグ全5球団に負け越し、勝率.325・85敗は2リーグ制以降の球団のワースト記録。10月28日、田淵がセレクション会議に提出する他球団リストを公表、球団は厳重注意、減俸10%の処分を科した。同年オフ首脳陣が刷新され投手コーチに権藤博、守備走塁コーチに広瀬叔功、打撃コーチに高畠康真、二軍監督に柴田猛が就任した。 1991年 門田が3年ぶりに復帰。権藤の手腕も光り村田勝喜が前半戦に10勝、阪神から移籍の池田親興もストッパーに転向して活躍。前半戦は4位で終える。上位を狙える位置にいたが、主力投手の村田と本原が故障で途中離脱、20本塁打を打っていた主砲の岸川も故障離脱したこともあり失速し5位に終わる(日本ハムが全日程を終了した時点でロッテ戦5試合を残しており、1勝すれば4位は確保できたが、1引き分けのあと4連敗を喫して最終戦で5位に転落。この最終戦は、ロッテが川崎球場を本拠地とした最終戦でもあった)。広瀬の指導で盗塁数は急激に伸び、特に阪神からトレードで来た大野久は盗塁王を獲得し、大野(42盗塁)・佐々木(36盗塁)・湯上谷宏(30盗塁)と30盗塁以上を3人輩出しチーム盗塁数は両リーグトップの141を記録した。 1992年 オリックスからブーマー・ウェルズが移籍。ルーキー若田部健一が開幕から先発ローテーションに加わり、負け越したものの2桁勝利を挙げる。一時期7年ぶりの単独首位になるも5月下旬7連敗、以降低迷し4位。なおオリックスに15勝11敗で22年ぶりの勝ち越し。佐々木が首位打者、盗塁王を獲得。監督の田淵は解任され、門田、山内孝徳、この年打点王を獲得したブーマーが引退。1992年を最後に平和台球場から移転。この時期積極的に交換トレードを敢行。生え抜きでも佐々木・吉永幸一郎・村田といった若手の成長、この時期のトレードで獲得した選手は今井雄太郎・島田誠・門田・有田修三・永射保・広橋公寿・新浦壽夫・杉本正・水上善雄と過去の実績は十分であったが、引退間近で力の衰えが顕著な選手も多く、池田・大野・本原といった成功例はあったもののその成功も1-2年のみ活躍した後は長続きしなかった。オフに根本陸夫が監督に就任。
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