王家の居城として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 13:44 UTC 版)
尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。同時に首里は首府として栄え、第二尚氏においても同様だった。史書に記録されている限りでも、首里城は数度にわたり焼失している。焼失の度に再建されてきたが、良材が不足しがちな沖縄では木材の調達が問題となり、薩摩藩からの木材提供で再建を行ったり、将来の木材需要を見越して本島北部での植林事業を行ったりしている。一度目の焼失は1453年(享徳2年)に第一尚氏の尚金福王の死去後に発生した王位争い(志魯・布里の乱)であり、城内は完全に破壊された。一度目に再建された城の外観と構造については、『李朝実録』に記述がみられ、1456年2月の目撃記録として、首里城は、「外城」「中城」「内城」の三地区に分かれ、外城には倉庫や厩、中城には200余人の警備兵、内城には二層の屋根を持つ「閣」があり、内部は三階建てで、三階は宝物を保管し、中層には王が滞在する場所があり、侍女が100余人控え、一階は酒食が供される集会所となっていたと記述されている。 初, 丙子年(※1456年)正月二十五日船軍梁成等濟州發船逢風, 二月初二日漂到琉球國北面仇彌島。 ……過一月歸王城, 王城凡三重, 外城有倉庫及廐, 中城侍衛軍二百餘居之, 內城有二三層閣。 ……其閣覆以板, 板上以鑞沃之。 上層藏珍寶, 下層置酒食, 王居中層, 侍女百餘人。 ……一, 七月十五日上佛寺, 記亡親姓名, 置於案上, 奠米於床, 以竹葉灌水於地, 僧則讀經, 俗則禮拜。 ……一, 奴婢日本人, 雖切族皆賣爲奴婢, 國王親近使令, 皆所買也。 或有女國人來贈奴婢者。……一, 國王葬禮, 鑿巖爲壙, 壙內四面編板立之, 遂定棺作板門以鑰鎖, 使之墓前及兩傍, 構屋守墓人居之。 環墓築石城, 城有一門。 ……肖得誠等八人, 今年(※1462年)正月二十四日, 羅州發船, 二月初四日, 漂到琉球國 彌阿槐島。 ……一, 國王居於二層閣, 其閣皆著丹艧, 覆以板, 每鷲頭以鑞沃之。 ……一, 國王年三十三歲。 一, 國王有子四人, 長子年十五許, 餘皆幼。……王子不與國王同處, 別在他所。一, 舊宮在所居宮城南, 其層閣、城郭制度與常居宮同。 時時往來, 或二三日、或四五日留居焉。 — 世祖恵荘大王實録,第二十七之九,世祖八年二月辛巳の条.李朝実録、 二度目の焼失は1660年(万治3年)のことであり再建に11年の年月を要した。1709年(宝永6年)には三度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失した。この時は財政が逼迫しており、1712年(正徳2年)に薩摩藩から2万本近い原木を提供されている。現代の首里城の建築は、三度目の火災の後再建された1715年(正徳5年)から1945年(昭和20年)までの姿を基にしている。なお、1712年(正徳2年)発行の「和漢三才図会」(寺島良安・編)には首里城が「琉球国」の項の挿絵(地図)のなかに描かれている。1719年冊封副使・徐葆光『冊封琉球全図』の「中秋宴図」に首里城が描かれている。
※この「王家の居城として」の解説は、「首里城」の解説の一部です。
「王家の居城として」を含む「首里城」の記事については、「首里城」の概要を参照ください。
- 王家の居城としてのページへのリンク