王家の町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/12 07:28 UTC 版)
15世紀からのユゼルシュは『リムーザンの城はユゼルシュの住宅である』(Qui a maison à Uzerche a château en Limousin)というイギリス人作家アーサー・ヤングの格言を証明するように、発展した。 1463年、ルイ11世はユゼルシュを訪問し、執事長(sénéchal)に権限を委任した。16世紀まで、ユゼルシュの法服貴族たち(fr)は要塞化された邸宅や住居を建てた。こうした住宅として、我々はシャトー・ポンティエ、オテル・デ・ジョワエ・ド・モーベック、メゾン・ボワイエ・シャマン、メゾン・エサルティエ、メゾン・ド・タイヤック、オテル・ド・クレダをあげることができる。1558年、町は2つの町と44の教区で構成される、王室の執事長管区とされた。したがって、ブリーヴ=ラ=ガイヤルドの執事長管区と競合することになった。修道院の権力とユゼルシュの執事長管区の発展は、ユゼルシュを低リムーザン地方の首都に押し上げた。それにもかかわらず、ユグノー戦争はこの相対的な繁栄を急速に悪化させた。1575年、ユグノー派の先頭に立つテュレンヌ子爵は、修道院を略奪した。1628年から、王の官吏が、リシュリューの政権下で堂々たる壁を壊し始めた。1632年の訪問中、ルイ13世は執事長の邸宅に泊まった。 1753年に完成したテュルゴー橋は、旧市街のサントゥラリー通りにつなぐため建設された。これ以前には通りが1つだけで、曲がりくねった通りには15世紀から16世紀に建てられた大邸宅が立ち並んでいた。 1767年、18人の修道士たちからなる『聖ジャンの祝福された同盟集会』(loge Saint-Jean de l'Heureuse Alliance)が創設された。注目に値するのは全員がフリーメイソンで儀式を行った指導者だったことだった。
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