独自外交の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 13:38 UTC 版)
「ニコラエ・チャウシェスク」の記事における「独自外交の展開」の解説
チャウシェスクの最初の仕事は、政党名をルーマニア労働者党からルーマニア共産党へ戻すことと、国名を「ルーマニア人民共和国」から「ルーマニア社会主義共和国」へと変更したことであった。1967年、チャウシェスクは国家元首である国家評議会議長となり、自身の権力を強化した。政権を獲得してからしばらくの間の外交政策は、ソ連と距離を置く親西欧路線を取り、ルーマニア国内および西側諸国で人気を得た。1960年代、ルーマニアはワルシャワ条約機構へ積極的に干渉し、1968年のチェコ事件に対しては、チェコスロバキアへのルーマニア軍の派遣を拒否してソ連を公然と非難した。一方でソ連は、共産主義ブロック内で独自路線をゆくルーマニアの態度を「うわべだけのもの」とさほど重要視していなかった。 これらの外交策により、チャウシェスクはアメリカ合衆国および西側諸国から開放政策の推進を持ちかけられることになった。ルーマニア社会主義共和国は、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が承認した最初の共産主義国であり、IMF(国際通貨基金)やGATT(関税および貿易に関する一般協定)にも加盟し、アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンも真っ先に迎え入れた。また、ニクソン大統領の中国訪問も仲介しており、1971年6月に中ソ対立最中の中華人民共和国を訪問し、8月には軍事代表団も訪中してルーマニアはワルシャワ条約機構の加盟国であるのにも関わらず、ワルシャワ条約から脱退したアルバニアのエンヴェル・ホッジャのように中国から軍需品を導入し、同年10月に国際連合でアルバニアなどと共に中国を常任理事国に昇格させるアルバニア決議の賛同国として名を連ねた。同じくソ連と距離を置く社会主義国だったユーゴスラビアとは、東ヨーロッパでは共産主義ブロック崩壊前の欧州経済共同体で貿易協定を結ぶ唯一の国でもあった。1973年に米国の支援するチリ・クーデターによって社会主義的なサルバドール・アジェンデ政権を打倒したアウグスト・ピノチェト政権とは中国と並んで国交を維持した数少ない共産圏だった。チャウシェスクは東側諸国の国家元首だったが、前述のように西側諸国へ積極的にアプローチし、アメリカ、フランス、イギリス、スペイン、日本など西側主要諸国へ公式訪問するなかで、改革を達成した共産主義のアピールを行った。また、チャウシェスクは自身を「見識ある国際的な政治家」とアピールしていた。 1974年には大統領制を導入し、ルーマニアの初代大統領に就任した。 1975年4月4日から4月9日にかけて日本を訪問し、昭和天皇(4月4日)、三木武夫首相(当時)(4月5日)と会談した。1977年にはイスラエルを訪問したエジプトの大統領アンワル・アッ=サーダート(当時)と会談し、国際情勢に関して協議した。ルーマニアは、イスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)の両方と正常な外交関係を維持した唯一の国でもあった。 また、西側諸国による1980年モスクワオリンピックの大規模なボイコットの報復として東側諸国が軒並みボイコットした1984年ロサンゼルスオリンピックにおいても、ルーマニアは他の東側諸国と足並みをそろえず中国とともに参加した。こうした姿勢は西側諸国からは賞賛されたものの、ソ連や東ドイツなどの東側諸国から顰蹙を買った。
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