独自性の追求
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 08:02 UTC 版)
1936年(昭和11年)に日本コロムビアの専属作曲家として入社した服部は、次々に作曲や編曲を手掛けつつも、独自の個性の確立を検討していた。この背景には、従来の専属作詞家や作曲家同様に結果を出すことを会社から求められていた上に、結婚したばかりで新たに家庭を築こうとしていた個人的な事情もある。そのような中、まず服部が生み出したのがブルースの作品群であった。「ブルースの父」と呼ばれたW.C.ハンディの人生と音楽に「強い共感を覚えていた」服部は、成り立ちからアメリカ・ヨーロッパなどでの現状まで、ブルースを深く研究していた。また、中沢寿士のバンドが、公演中に演奏した『セントルイス・ブルース』が客から好評を得ていたことからも、ブルースを作ろうと思い立った。 入社した翌年の1937年(昭和12年)に高橋掬太郎作詞によるブルース『霧の十字路』を作曲したところ、コロムビア本社の社員の注目を集めるなど、好評を博した。この成功が服部の自信となり、新たなブルースの着想を得ようと横浜の山下公園、本牧を巡った末に立ち寄ったあるバーで、蓄音機を介して淡谷の歌う『暗い日曜日』を耳にする。この曲を聴いた服部は「本牧を舞台にしたブルースを彼女に歌わせよう」と考え、当時、存在した老舗ホテル「バンドホテル」をモデルに作曲の構想を練った。
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