犬養内閣以後
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鳩山は犬養内閣から齋藤内閣にかけて文部大臣を務めたが、1932年(昭和7年)に義兄の鈴木が犬養毅の後をうけて政友会総裁となると党内の実力者となった。 1933年(昭和8年)の京都帝国大学の滝川幸辰の学説・思想を非とするいわゆる滝川事件の際には、京大総長に対して滝川教授の免職を要求し、これが拒絶されると文官分限令によって一方的に滝川を休職処分にした。このことは戦後になって批判された。 樺太工業から賄賂を受け取ったと政友会から攻撃された樺太工業問題の際には散々弁明したあげく「明鏡止水の心境で云々」と発言したところ辞職の意思表示だと報道され、嫌気がさして辞職した。 「明鏡止水」は流行語になった。 この事件は政友会の久原房之助による内閣攻撃の一環であり、枢密院の平沼騏一郎が後ろで糸をひいていたという。 帝人事件では台湾銀行頭取にはたらきかけて11万株の帝人株を払い下げさせたといわれたが、そもそもこの疑獄事件は砂上の楼閣で、ここでも平沼騏一郎の画策があったとされている。 1936年(昭和11年)2月20日の総選挙で総裁の鈴木が落選するという失態を演じると、鳩山は宮中に工作を行って鈴木を貴族院議員に勅選させ、これを根拠に鈴木の総裁居座りを実現させるが、党内から大顰蹙を買う。 鳩山は総裁代理として党を主導しようとしたが、軍部と迎合しようとする多数派とは一線を画し、軍に近い中島知久平・前田米蔵・島田俊雄らと対立した。 1939年(昭和14年)の政友会分裂に対しては中島を総裁に担いだ前田・島田ら親軍派の政友会革新同盟(革新派、中島派)に対し反中島という点で鳩山と一致した久原を担ぎ自由主義的な正統派(久原派)を結成したが、久原は中島・前田・島田ら以上の親軍派だったためやがて鳩山は久原とも対立した。 1940年(昭和15年)に鳩山は民政党総裁の町田忠治と極秘に会談し、政友会の正統派と民政党を合同させて新体制運動に対抗する相談を行っていたが、それを潰すために圧力をかけたのが久原であった。 1942年(昭和17年)の翼賛選挙に際しては翼賛会の非推薦で当選した。 1943年(昭和18年)の第81帝国議会では東條内閣による戦時刑事特別法改正案に反対し翼賛政治会を脱会した。 その後は長野県軽井沢の別荘で隠遁生活を送った。鳩山が主として軽井沢を舞台に交流したのは、近衛文麿、吉田茂、宇垣一成、真崎甚三郎、松野鶴平、芦田均、笹川良一、赤尾敏といった人々であり、隠遁とはいっても軽井沢にいる政治家たちとの情報共有は欠かさず、終戦和平工作にも関与した。また近所には伊沢多喜男、来栖三郎、清沢洌、陸奥イアン陽之助らもおり、彼らはおたがいに訪ねあっては時局を憂いた。 軽井沢に引っ込んだ理由としては、軍部のいうがままに流される議会に失望し、その潮流に巻き込まれたくなかったこと、東條英機の対抗馬になりうるのが近衛文麿や木戸幸一のようなインテリしかおらず、兵隊上がりの東條を退陣させることはとてもではないが無理であると考えたことが挙げられる。 このように、昭和戦前期の鳩山の政治行動には、親軍的な部分と軍に抵抗した部分が混在しており、このことは戦後の政治活動に様々な形で影響していく。
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