犬養内閣以後とは? わかりやすく解説

犬養内閣以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)

鳩山一郎」の記事における「犬養内閣以後」の解説

鳩山犬養内閣から齋藤内閣にかけて文部大臣務めたが、1932年昭和7年)に義兄鈴木犬養毅の後をうけて政友会総裁となると党内実力者となった1933年昭和8年)の京都帝国大学滝川幸辰学説・思想を非とするいわゆる滝川事件の際には、京大総長に対して滝川教授免職要求し、これが拒絶される文官分限令によって一方的に滝川休職処分にした。このことは戦後になって批判された。 樺太工業から賄賂受け取った政友会から攻撃され樺太工業問題の際には散々弁明したあげく「明鏡止水心境云々」と発言したところ辞職意思表示だと報道され嫌気がさして辞職した。 「明鏡止水」は流行語になった。 この事件政友会久原房之助による内閣攻撃一環であり、枢密院平沼騏一郎後ろで糸をひいていたという。 帝人事件では台湾銀行頭取はたらきかけ11帝人払い下げさせたといわれたが、そもそもこの疑獄事件砂上の楼閣で、ここでも平沼騏一郎画策があったとされている。 1936年昭和11年2月20日総選挙総裁鈴木落選するという失態演じると、鳩山宮中工作行って鈴木貴族院議員勅選させ、これを根拠鈴木総裁居座り実現させるが、党内から大顰蹙を買う。 鳩山総裁代理として党を主導しようとしたが、軍部迎合しようとする多数派とは一線を画し、軍に近い中島知久平前田米蔵島田俊雄らと対立した1939年昭和14年)の政友会分裂に対して中島総裁担いだ前田島田ら親軍派の政友会革新同盟革新派中島派)に対し反中島という点で鳩山一致した久原担ぎ自由主義的な正統派久原派)を結成したが、久原中島前田島田ら以上の親軍派だったためやがて鳩山久原とも対立した1940年昭和15年)に鳩山民政党総裁町田忠治極秘会談し政友会正統派民政党合同させて新体制運動対抗する相談行っていたが、それを潰すために圧力をかけたのが久原であった1942年昭和17年)の翼賛選挙に際して翼賛会の非推薦当選した1943年昭和18年)の第81帝国議会では東條内閣による戦時刑事特別法改正案反対翼賛政治会脱会した。 その後長野県軽井沢の別荘隠遁生活送った鳩山主として軽井沢舞台交流したのは、近衛文麿吉田茂宇垣一成真崎甚三郎松野鶴平芦田均笹川良一赤尾敏といった人々であり、隠遁とはいっても軽井沢にいる政治家たちとの情報共有欠かさず終戦和平工作にも関与した。また近所には伊沢多喜男来栖三郎清沢洌陸奥イアン陽之助らもおり、彼らはおたがいに訪ねあっては時局憂いた。 軽井沢引っ込んだ理由としては、軍部のいうがままに流される議会失望し、その潮流巻き込まれたくなかったこと、東條英機対抗馬になりうるのが近衛文麿木戸幸一のようなインテリしかおらず、兵隊上がり東條退陣させることはとてもではないが無理であると考えたことが挙げられるこのように昭和戦前期鳩山政治行動には、親軍的な部分と軍に抵抗した部分混在しており、このことは戦後の政治活動様々な形影響していく。

※この「犬養内閣以後」の解説は、「鳩山一郎」の解説の一部です。
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