特務艦、一般商船、他航路連絡船などを総動員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 17:44 UTC 版)
「洞爺丸」の記事における「特務艦、一般商船、他航路連絡船などを総動員」の解説
終戦1ヵ月前の1945年(昭和20年)7月14・15両日のアメリカ軍による空襲で、青函連絡船は12隻全船が稼働不能となった。このため、急遽7月17日から海軍特務艦で元日本郵船樺太航路の砕氷貨客船千歳丸(2,669総トン)を、7月20日から同じく海軍特務艦で元大阪商船琉球航路貨客船浮島丸(4,730総トン)を就航させ、7月23日からは、たまたま函館船渠で定期検査修繕中の稚泊連絡船 亜庭丸 (3,391総トン)を繰り上げ出場のうえ就航させた。さらに、7月25日からは大阪商船所有で船舶運営会運航の稚斗連絡船(稚内 - 本斗)樺太丸(元関釜連絡船初代壱岐丸1,598総トン)を就航させ、運航継続を図った。また上記空襲で損傷し、函館船渠で修復中であった車両渡船第七青函丸も7月25日から復帰させ、7月29日からは第八青函丸も復帰させ、車両航送再開に努めた。 終戦直後、青函航路には、多くの引揚げ者や復員者、徴用解除の帰郷者、朝鮮半島や中国大陸への帰還者、さらには食糧買い出しの人々も殺到し、貨物は減少したものの、当時、本州と北海道とを結ぶ代替ルートのない唯一の航路で、農産物や石炭輸送の継続を迫られていた。終戦時稼働できたのは上記2隻の車両渡船と樺太丸だけで、旅客設備未設置の第八青函丸にまで1,100名もの旅客を乗せることが常態となっていた。このような中、8月20日から関釜連絡船 景福丸(3,620.60総トン)を、8月21日からはフィリピンからの拿捕船で船舶運営会の暁南丸(1,243総トン)を、8月24日からは関釜航路の貨物船壱岐丸(2代)(3,519.48総トン)を、11月29日からは稚泊連絡船宗谷丸を就航させたほか、多数の商船、機帆船、旧陸軍上陸用舟艇などを傭船して、この混乱期に対応した。なおこの時期(1945年(昭和20年)9月から1946年(昭和21年)2月)までの1航海の平均乗船者数は2,550名にも達していた。さらに、青函航路への回航中、1945年(昭和20年)7月30日、京都府下宮津湾でアメリカ軍の空襲に遭い、擱坐していた関釜連絡船 昌慶丸(3,620.60総トン)を浮揚、修復し、1947年(昭和22年)9月23日から青函航路に断続的に就航させ、同徳寿丸(3,619.66総トン)も昌慶丸 と交互に助勤する形で、1948年(昭和23年)3月4日から5月2日までと、1949年(昭和24年)3月から8月にかけて助勤させていた。しかし、これら他航路からの転属船は貨車航送ができず、慢性的な貨物輸送力不足の解決にはならなかった。
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