源氏と鎌倉とは? わかりやすく解説

源氏と鎌倉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 09:59 UTC 版)

鎌倉」の記事における「源氏と鎌倉」の解説

康平6年1063年)に清和源氏棟梁源頼義由比鶴岡鎌倉市材木座)に「鶴岡若宮」として、河内源氏氏神である河内国石川郡壷井壷井八幡宮勧請したこの年は、頼義が陸奥安倍貞任討ち前九年の役終結した翌年である。頼義は、氏神として信仰する八幡神戦勝祈願していた。そして、戦いの後京都郊外石清水八幡宮勝利を感謝し本拠地河内国壷井壷井八幡宮勧請し河内源氏東国進出拠点である鎌倉八幡神分霊祀った。これが今も鎌倉中心である鶴岡八幡宮起源である。 それから1世紀以上経た治承4年1180年)、頼義の玄孫である源頼朝鎌倉入りした。頼朝の父・義朝は、頼義以来ゆかりのある鎌倉亀ヶ谷に館を構え頼朝異母兄・義平の大蔵合戦での活躍もあり関東に強い基盤持っていたが、平治の乱平治元年/1159年)で平清盛との戦い敗れ関東落ち延びる途中尾張国殺害された。これが初陣であった若き頼朝殺されるはずであったが、清盛継母にあたる池禅尼助命嘆願許され摂津源氏源頼政一族知行国でもある伊豆蛭ヶ小島流された。それから20年後の治承4年1180年)、以仁王頼政嫡子の「前伊豆守源仲綱通じて全国源氏発した令旨奉じ頼朝は、流刑先の伊豆平氏打倒兵を挙げる頼朝の軍は石橋山の戦い神奈川県小田原市)では敗北して、いったん安房千葉県南部)へ引き下がるが、ここで軍勢整えて、続く富士川の戦いでは平維盛らの軍勢圧倒する関東平定し頼朝父祖ゆかりの地であり、天然要害である鎌倉入り大倉大蔵)という場所に館を設ける。現在の鶴岡八幡宮東方横国大附属鎌倉小学校校舎校庭の境付近から清泉小学校あたりがその館跡で、ここは後に「大倉幕府大倉御所)」と呼ばれるうになる。 同じ治承4年1180年)、頼朝八幡宮鶴岡若宮由比若宮)を由比鶴岡から小林郷へ移す。小林郷は現在の鶴岡八幡宮所在地であり、「鶴岡」は地名ごと移動してきたことになる(なお、由比若宮旧地には、今も「元八幡」という小社が残る)。以後鶴岡八幡宮鎌倉象徴となり、都市計画八幡宮中心に行われた寿永元年1182年)には八幡宮表参道整備された。現在も鎌倉メインストリートである若宮大路がそれである。当時水田の中の道だった若宮大路は、石を積んで周囲地面よりかさ上げする工事が行われた。現在「段葛」(だんかずら)と呼ばれている、両脇車道より一段高くなった歩道はその名残である。

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