源氏の勝利を祈願
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治承4年(1180年)、平家の圧力によって安徳天皇に譲位された高倉天皇が、上皇となられた際、従来の慣習に従わず安芸の厳島神社へ御幸されることとなった。(厳島神社は、平家の氏神にあたる)先例として社参を受けるべき円城寺の衆徒や延暦寺、興福寺の衆徒はこれに異議を唱え、反平家の態度で団結。高倉上皇の厳島御幸を断行しようと謀る平清盛と対決姿勢を鮮明にした。進美寺は、本山である延暦寺の指示を受け但馬における反平家の拠点として平家誅滅・源氏必勝の祈願を行い、源氏方の有力勢として活躍。元暦2年(1185年)、源義経が屋島の戦いで平家の軍勢を攻めた時、進美寺は観音経一万巻を転読し源氏の勝利を祈願した。さらに、文治2年正月18日(1186年)からは、平家討滅まで毎日観音経三十三巻の読誦を行い源頼朝の武運長久・必勝萬歳を奉祈した。これらの必勝祈願は、頼朝から指示を受けた但馬国惣追捕使・小野時広を奉行として行われた。進美寺は平家討滅の祈願を早くから行い、親頼朝路線を鮮明にしていた実績から信認を得て「幕府祈祷所(関東御祈祷所)」と定められた。進美寺は、建久5年5月(1194年)には、法華経三千部と観音経十万巻を奉読したこれまでの実績を小野時広に示し、これを受けて小野は「進美寺は関東(鎌倉幕府)の大切な御祈祷所であるから、(進美寺に対して)決して狼藉を行うようなことがあってはならない」と但馬国中の大名・豪族に対して厳命を下した。
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