渡海屋・大物浦(碇知盛)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 10:05 UTC 版)
「義経千本桜」の記事における「渡海屋・大物浦(碇知盛)」の解説
二段目の切。上でも触れたようにこの段も能『船弁慶』を下敷きにしているが、ほかに能『碇潜』(いかりかつぎ)の趣向も取り入れ、能の平知盛は幽霊であるのに対し、本作では幽霊に装った知盛本人が登場し合戦の様子を再現している。 原作の浄瑠璃では「大物浦」は「渡海屋」のすぐ近くであり、「渡海屋」 → 「大物浦」 → 「渡海屋」 → 「大物浦」と、場面が交互に移っている。現行の文楽では一杯道具、すなわち幕を引くことなく場面転換をこなし、最後は舞台面が海原となり、海から出た岩場の上に舟で乗り付けた知盛が立ち、碇を担いで入水する。歌舞伎では知盛が渡海屋から出るところでいったん幕を引き、すぐに幕を開けると舞台は海辺の景色、上手に屋体を設け、そこに安徳帝と典侍の局が沖の様子を伺っている。局が安徳帝とともに入水しようとして義経の手の者に取り押さえられる。と再び幕となり、幕が開くと知盛が入水するときの大道具という段取りで、「渡海屋の場」、「大物浦の場」のふたつの場面にはっきりと分けている。もっとも浄瑠璃の本文では、船で大物の海へと出た知盛が船の上から碇を担いで入水するように書かれている。 浄瑠璃では最初、旅の僧に姿をやつした弁慶がうたた寝をしていた銀平娘お安、実は安徳帝を跨ぐ。すると帝という高貴の人物の上を跨いだことにより弁慶の足がしびれるという場面があるが、これが義経がこの家の人物たちが只者ではないと見破る伏線となっている。安徳天皇が実は姫宮であったというのは『平家物語』にすでにそれをほのめかす記述が見られ、当時巷説として流布していたものである。 歌舞伎では古くは銀平は出のときに碇を担いで花道を出たが、現行では番傘を持って出る。文楽では今でも碇を担いで出ている。また歌舞伎で銀平が着ている長い上着は、厚司という蝦夷地産の衣服をかたどったものである。この銀平に追い払われる相模五郎は、七代目市川團十郎が演じてからは歌舞伎ではご馳走役として幹部級の役者が演じるのが例となっており、原作には無い「魚づくし」のせりふを言いながら引っ込み、そのあと大物浦の安徳帝と局への御注進では白装束の四天に姿を変え、竹本や下座に合わせての勇壮な芝居が見どころとなる。 義経たちを立たせたあと、銀平じつは知盛が「そもそもこれは桓武天皇九代の後胤、平の知盛幽霊なり」と、能『船弁慶』からとった謡で現われる。その姿は「西海にて滅びし平家の悪霊、知盛が怨霊なりと雨風を幸いに、彼らの目をくらません為」白装束の出で立ちであるが、後に義経への奇襲に失敗しそれが死装束となるのである。さらに知盛が戦乱を「潮(うしお)にて水に渇(かっ)せしは、これ餓鬼道」と以下六道に例えて述べるくだりは、仏教思想の影響の強い『平家物語』の影響を感じさせる場面である。
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