清国側の対応とは? わかりやすく解説

清国側の対応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 00:29 UTC 版)

壬午軍乱」の記事における「清国側の対応」の解説

清国政府が軍乱発生の報を最初に受けたのは、8月1日東京在住清国公使黎庶昌からの電報によってであった李鴻章生母死去服喪中だったため、北洋大臣代理にあった張樹声が、天津滞在していた朝鮮官僚金允植魚允中事件経緯伝え両名意見尋ねた。金と閔氏政権開化派官僚であった。ふたりは、事件国王高宗開国政策反対する守旧派勢力クーデターであると推断したうえで、日本軍反乱軍衝突する怖れがあるとし、また日本がこの機会朝鮮進出をはかるだろうと訴えて、張に清国派兵日朝間の調停要請した張樹声はただちに北洋水師提督丁汝昌出動準備命じ上海滞在中の馬建忠外交交渉役として呼び寄せた8月7日清国皇帝光緒帝によって「派兵し保護すべし」の命令下った。これは、藩属国たる朝鮮保護のみならず朝鮮被害受けた日本をも保護せよというものであった丁汝昌率い北洋艦隊軍艦3隻(「威遠」「超勇」「揚威」)は、馬建忠魚允中乗せて山東省芝罘現在の煙台市)を出港8月10日には済物浦入港した仁川入りした馬建忠情報収集にあたるとともに日朝両国要人非公式に接触し清国政府に対して兵員増派上申した。これにより、8月20日広東総督呉長慶が3,000名の兵を率い、3隻の軍艦護衛され済物浦南方40キロメートル馬山浦(京畿道南陽沿岸所在慶尚南道馬山とは異なる)に到着した馬建忠漢城向かい清国軍もその後から漢城進駐して日本軍圧倒する兵力配置した8月24日には朝鮮との戦争辞せず構えとってい仁川花房全権公使おとずれ意見交換おこない、翌8月25日再度会見では花房から朝鮮全権との再協議応ずるという確約引き出した日本清国調停受けたのは、それを拒否すれば清国軍との衝突覚悟しなければならなかったためと考えられるまた、このとき、ふたりの間で大院君排除問題話されたかどうかは不明であるが、開国政策妨害する大院君政権から取り除くべきという一点において、日清両国は共通の立場に立ちえたものと考えられる8月26日漢城戻った馬建忠丁汝昌呉長慶協議し日朝協議実現のためには大院君排除するしかないとの結論達した。彼らはその旨を、魚允中通して高宗伝えた

※この「清国側の対応」の解説は、「壬午軍乱」の解説の一部です。
「清国側の対応」を含む「壬午軍乱」の記事については、「壬午軍乱」の概要を参照ください。

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