清国漫遊・侍講
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政変による下野後は国典の調査に勤しみ、太政官修史局の小河一敏や本田親徳と懇意になる。明治9年(1876年)9月20日、従者一人を連れ「東京丸」で横浜を出帆し、神戸で楠木正成を祀る湊川神社に参拝。長崎を経て上海に渡った。蘇州、杭州の名勝を探り、北上して天津で李鴻章と会見。李鴻章からは清帝国への奉仕を薦められたがこれを固辞。副島が北京、天津を経て南方に赴き、湖南に来た頃に曽根俊虎が旅館に訪ねて来る。副島は、旅館「田代屋」に宿泊し、品川忠道、小栗栖香頂らとも会った。太平天国の乱で荒れた上海で、王寅や銭繹子琴、陳鴻詰らと交わり西湖では宋の忠臣・岳飛の墓に詣でた。天津では竹添進一郎も訪問してきた。上海で斎玉渓や毛対山と親交を結び、満州や漢口を旅して明治11年(1878年)に清国から帰国した。 明治12年(1879年)4月21日、宮内省御用掛一等侍講兼侍講局総裁を拝命。毎火曜日に明治天皇に大学・中庸・尚書を進講し、前年から論語を進講していた元田永孚も陪席した。10月に、黒田清隆が副島の侍講排斥を企て内閣と宮内省との大問題となる。明治13年(1880年)1月に一度進講を中絶したが、明治天皇からの宸翰を受け取り、以後、明治19年(1886年)の侍講職廃止まで明治天皇への進講を続けた。
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