清元分裂の経緯とその後、そして現在とは? わかりやすく解説

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清元分裂の経緯とその後、そして現在

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 09:20 UTC 版)

清元節」の記事における「清元分裂の経緯とその後、そして現在」の解説

1922年大正11年12月当時家元五世延寿太夫と、三味線方の三世清元梅吉(後の二世清元寿兵衛)とが不和となり、梅吉一門弟子伴って清元宗家から独立清元流創立した。現在は三世梅吉の孫である四世梅吉家元継承している。そのため、清元は現在も二流派が存在し延寿太夫側を「清元宗家高輪会(あるいは単に「宗家」)」または「高輪派」、梅吉清元流を『清元流』または「派」(以前は「赤坂派築地派」という呼び名もあったが、現在ではあまり用いられない)と呼び区別している。不和となって以後長唄や、同じ豊後節系の常磐津節などと違い流派超えた合同演奏一部例外除いて行なわれることはなく、それぞれ独立した演奏組織となっていた。 1964年昭和39年12月高輪派と派が寄り合い清元協会設立、六世延寿太夫会長に、二世寿兵衛名誉会長就任1966年昭和41年7月3日歌舞伎座での第1回皮切りとして定期的に清元協会演奏会催していたが、その後梅吉からの合同演奏呼びかけ高輪派が応じないことから派は協会から脱退しそれ以降長らく高輪派の演奏家のみが所属する団体となっていた。また、協会の設立熱望し合同演奏会開催待ち望んでいた寿兵衛第1回演奏会1か月前に没し出演は叶わなかった。 現在松竹歌舞伎公演出演しているのは高輪派のみであり、派は舞踊地方素浄瑠璃演奏会主な活動の場としている。 2010年平成22年8月24日NHKエンタープライズ企画『芸の真髄シリーズ第4回 清元 清き流れひと元に』(於:国立劇場)で延寿太夫梅吉88年ぶりに同じ山台演奏行った。 この公演機に双方歩み寄り翌年2011年平成23年8月9日には、宗家側のみとなっていた清元協会派が再合流し双方から役員選出宗家延寿太夫会長に、派の梅吉副会長就任し新生清元協会発足した。さらに翌年2012年平成24年8月29日には三越劇場において初の清元協会演奏会開催された。 2014年平成26年)には清元節生誕から200年記念の年となり、3月28日には清元延寿太夫主催により清元宗家高輪会と清元流演奏家、また趣味稽古受けている愛好家指導受けている花柳界所縁役者衆が一堂会し歌舞伎座において『清元節生誕二百年記演奏会』を催した。 また常磐津節などに続いて2014年10月伝統芸能としての清元節重要無形文化財指定され清元節保存会会員がその保持者として総合認定された。

※この「清元分裂の経緯とその後、そして現在」の解説は、「清元節」の解説の一部です。
「清元分裂の経緯とその後、そして現在」を含む「清元節」の記事については、「清元節」の概要を参照ください。

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