清代以降の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 21:01 UTC 版)
1721年、朱一貴が清朝に対して反乱を起こすと、赤崁楼の鉄製門額が武器鋳造の材料とされた。その後も人為的な破壊、風雨による侵食、地震による被害を受け赤崁楼は周囲の城壁を残すのみにまで荒廃した。 19世紀後半、大士殿、海神廟、蓬壷書院、文昌閣、五子祠などが赤崁楼の跡地に再建され昔日の様子を取り戻すようになった。日本統治時代には海神廟と文昌閣、五子祠は病院及び医学生の宿舎として利用されている。 1921年、台湾総督府により大士殿の解体修復が行なわれた際、プロヴィンティア時代の堡門が発見され、また東北部からはオランダ時代の砲台跡が発掘され、歴史館が設置された。戦後は更に修復が行なわれ、台南市立歴史博物館へと発展している。1974年には再び大規模修復が実施され現在の外観となり、1983年に文化部により国定古跡に指定され現在に至っている。
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