混迷続く経済状態と金正日の死去
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「朝鮮民主主義人民共和国の経済史」の記事における「混迷続く経済状態と金正日の死去」の解説
配給制度が崩壊して人々は市場(いちば)で生活必需品を入手する必要に迫られたため、北朝鮮各地では市場が発達した。しかし社会主義計画経済の原則に反する市場の隆盛は北朝鮮当局の警戒心を高め、2005年頃から市場に対する統制策が行われるようになり、「経済管理改善措置」による改革路線は急速にしぼんでいった。まず2005年10月には食糧の販売については国が指定する場所でのみ許可する制度を開始した。2007年には市場に出入の可能な女性の年齢を45歳以上に制限し、市場の縮小も行われた。そして2009年からは市場の開設日数を制限することを試みたが、これは住民の強い反発によって一旦断念された。 2009年11月には突如北朝鮮建国以来2回目のデノミが行われた。続いて国内の市場の閉鎖、外貨流通の取締りが実施され、経済統制を強化した。デノミによって旧通貨と新通貨の交換が実施されたが、交換には限度額が設けられた。これは2002年の経済改革によって富を蓄えた富裕層の資産を国家が没収し、打撃を与えることが目的であった。また外貨使用の禁止によって外貨を国家に献納することを求め、これによって著しい外貨不足に陥っている北朝鮮政府が外貨を確保することをもくろんだ。 しかし、これらの経済政策は北朝鮮としては異例とも言える住民たちの大反発を呼んだ。まず、相変わらず破綻状態が続く経済下では、国営商店で販売する生活必需品などの流通が思うように行われるはずもなく、市場の強制的閉鎖もあって物資の流通全体が滞ってしまった。この結果、デノミの直後からすさまじいインフレが発生することになった。その上外貨の流通を禁じたことで、北朝鮮に入り込んでいた中国商人の活動にも障害が起こり、物資不足に拍車がかかった。そのため多くの北朝鮮住民が食糧や生活必需品を入手できない状態に陥った。更にはデノミ後に交換可能な金額に制限を設けたことで、これまで蓄えてきた資産の多くが無価値に帰してしまったことに対する反発もまた激しかった。結局、2010年2月、金英逸首相は経済政策の誤りを認めて謝罪することになった。それに先立つ2010年1月、朝鮮労働党で経済政策を担当する朴南基計画財政部長・書記が失脚し、銃殺刑に処せられたとも追放されたとも言われている。そして、いったん閉鎖された市場は以前と変わらずに開かれるようになり、外貨の使用も認められるようになった。しかしデノミ実施前後に施行された経済統制を志向する法令が停止となっていない現状から、北朝鮮当局が統制経済の復帰をあきらめたとは考えにくく、今後とも市場経済と当局との綱引きが続くと見られている。
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