混迷する状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:00 UTC 版)
特にペロポネソス半島での蜂起は辺境であること、在地オスマン帝国軍司令官フルシト・パシャ (en) がイピロスのアリー・パシャ討伐のために遠征していたことからギリシャ反乱軍の本拠地と化したが、ギリシャ南部の山がちで島の多い地形に助けられていたことが大きく、そしてギリシャ軍に参加した諸勢力が様々な思惑や利益から参加していたに過ぎず、不統一な戦闘集団に過ぎず、内陸部、ペロポネソス半島、島嶼部などにおいて指導者もちがい、さらにファナリオティス対ゲリラ指導者、地主対農民、富裕な船主対船員などの対立か生じていたため、呉越同舟的な一面を持っていた。 そのため、1821年以降、オリンポス (en) 、マケドニアにまで広がっていた勢力はペロポネソス半島、ギリシャ本土、ギリシャ本土周辺の島嶼部、そしてサモス島のみが独立戦争終結時まで根拠地でありつづけたにすぎなかった。それ以外の地域ではまず独立への戦いに躊躇していた有力者らを打破しなければならず、サモス島、イドラ島ではオスマン帝国との戦いの前に、有力者に対する反乱が発生した。 オスマン帝国軍は数には優っていたが、お互いに残虐な行為を含んだ戦闘とゲリラ戦の経験の豊富なクレフテスらの奮闘、海での戦闘になれたギリシャ軍の前にオスマン帝国軍は撤退を余儀なくされた。また、親ギリシャ主義が広まっていたヨーロッパ各国ではギリシャの反乱に対する同情が広がっていた。ギリシャはヨーロッパ文明の源であり、当時盛んだったロマン主義の観点からも、キリスト教諸国が一致してギリシャ独立支援にあたることが支持され、ジョージ・ゴードン・バイロンに代表されるヨーロッパ各国からの義勇軍が組織され、ギリシャに赴いていった。 この義勇軍の中には古代ギリシャという幻想を抱いて参加したため、古代ギリシャのペリクレス時代のアテネ市民を想像していた人々の中には幻滅を感じた者もいたが、ギリシャ人らの行動を自らが持つ思想の実験場として活動した者や純粋に理想主義から活動した者もいた。
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