混迷、そしてフィデアホールディングス傘下へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 05:02 UTC 版)
「北都銀行」の記事における「混迷、そしてフィデアホールディングス傘下へ」の解説
しかし、その後の長期不況やデフレーションの進行により秋田県経済も深刻度を増した上、1996年に始まった金融ビッグバンの荒波にもまれ経営は苦戦を強いられた。北都銀もその渦中には、2003年までには53か店の統廃合や人員削減中心の合理化策を講じるも、2期連続の赤字計上となり効果がうまく生かされなかったほか、行員の不祥事により金融庁から業務改善命令を受け、ついには齋藤隆夫頭取(当時)が引責辞任に追い込まれるほど、経営は混迷を極めた。そして、収益力の脆弱さを補うべく講じられていた積極的な有価証券運用あるいはデリバティブ取引が、サブプライムローン問題やリーマンブラザース破綻による市場の混乱により、あだとなってしまい、2008年3月末には120億円を超える含み損を抱える事態となり、自己資本比率も5.58%に低下するなど非常事態を迎えるに至った。そこで、顧客に安心感を与えるため早急な自己資本増強策に迫られた加賀谷武夫頭取(当時)が、親密先であるみずほフィナンシャルグループに相談したところ、荘内銀行への橋渡しをされたことが、資本提携、ひいてはフィデアHD傘下入りする端緒となった。
※この「混迷、そしてフィデアホールディングス傘下へ」の解説は、「北都銀行」の解説の一部です。
「混迷、そしてフィデアホールディングス傘下へ」を含む「北都銀行」の記事については、「北都銀行」の概要を参照ください。
- 混迷、そしてフィデアホールディングス傘下へのページへのリンク