深見の「最後の弟子」ビートたけし
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「深見千三郎」の記事における「深見の「最後の弟子」ビートたけし」の解説
「お笑いBIG3」の一人である、ビートたけしの師匠としても知られる。 「北は長いからタケだ」と言ってたけしを息子のように非常に可愛がった。 明治大学を中退後、フランス座のエレベーターボーイをしていた青年の北野武はエレベーター内で深見に弟子入りを直訴、「お前何か芸が出来るのか?」と問う深見に返事できないでいると、深見はその場で軽快なタップを踏み始め、「こういうのでも練習するんだな」と弟子入りを許した。その余りの格好良さに、たけしは感動したという。たけしはその後、フランス座の屋根裏部屋で住みながら芸人修行を始めた。 たけしは深見からの薫陶と影響を深く受けた。たけしの芸風である毒舌・早口・アドリブなどは全て深見譲りであり、タップダンスも得意としていたことから、周囲から「まるで生き写し」と言われた事もあったという。その一例として、放送番組で、たけしの弟子の集団であるたけし軍団に絡む際、深見譲りの毒舌と、鋭いツッコミを入れるなどしている。後にたけし自身も「芸人としての心意気・感覚すべてピッタリだった。自分はその心意気を継いでいる。」と語っており、別番組のインタビューでは「芸人としての生きざまは師匠の深見千三郎から教えられた。深見から言われた「笑われるのではなく笑わせろ」という言葉は未だに忘れられない。」と語っている。たけし軍団の一員にも、これらを叩きこんでいる。 深見は漫才を軽演劇より一段下に見ていたようで、たけしはコントでの出世を模索していたこともあったが、当時フランス座は経営難で、給料の支払いすら事欠くようになっていたことや、コントコンビを組む予定の相方の病気もあり、また、背広一つで稼ぐことができる漫才に魅力を感じていたことから、フランス座で共に、コントを行っていたこともある松鶴家二郎(相方であるビートきよし)に漫才コンビを組まないかと誘われ「漫才で勝負したい」とたけしが申し出た時も激怒し、破門を言い渡している。だが、深見からしてみれば、自分が気にかけた弟子が去っていく事の寂しさの方が大きかったと言われている。その後、ツービートが漫才でメキメキ頭角を現していく姿を喜び、ツービートの出演するテレビ番組に見入っていたという。 たけしが久しぶりにフランス座を訪れた時、深見は「何しに来やがった馬鹿野郎この野郎、元気か?」「来るなって言ったろう馬鹿野郎、腹減ってないか?ラーメンでも食うか?」と照れと嬉しさが入り交じった態度で迎えた。破門を解かれたたけしも忙しい合間に深見をたびたび訪問するようになる。その様子を「まるで実の親子のようだ」と評する者もいた。 たけしが1982年度の日本放送演芸大賞を受賞した際、「小遣いだ」と言って賞金を全て深見に渡した。深見は馴染みの飲み屋で「タケの野郎がよ、生意気によ、小遣いだなんて言ってよ」と何度も嬉しそうに語っていたという。失火で死去する1か月前の事であった。 たけしはフジテレビの『オレたちひょうきん族』収録中、楽屋で深見の訃報を聞いた。しばし絶句した後たけしは、壁に向かい俯きながら無言でタップを踏み始めた。 深見の葬儀の後、たけしは札幌での仕事のため羽田空港へ向かった。待ち合わせていた高田文夫に「深見のおとっつぁんもバカだよな。死んだら人が焼いてくれるのに、自分で焼いちめえやんの」と師匠譲りの毒交じりの一言を口にしたという。 生前、深見はたけしに「俺にはお前にも教えていないとっておきの芸がある」と語っていたという。たけしはその芸がどのようなものであるのか幾度となく尋ねたが、深見は頑として答えなかった。「この芸を見たら、どいつもこいつも驚いてひっくり返る」とまで豪語していたその芸は、深見の死によって永久に謎のままとなった。 たけしは後に「自分は有名になる事では師匠を超えられたが、芸人としては最後まで超えられなかった」と、深見の偉大さを語っている。
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