法と政治の経歴
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1886年、ラフーンは叔父のアメリカ合衆国下院議員ポーク・ラフーンと共に住むためにワシントンD.C.に移転した。そこでは年金事務所の支配人であるC・R・フォークナー判事の事務所で使い走りを務めた。1887年9月、コロンビア法学校(バーノン・ギプソンはジョージ・ワシントン大学法学校の前身だと言っている)に入学した。1888年10月17日、ワシントン・アンド・リー大学に転入し、1890年には法学士号を得た。その後はマディソンビルに戻り、法廷弁護士として認められ、ウィリアム・H・ヨスト判事の事務所で法律実務を始めた。民主党に入党して活動するようになり、郡の選挙管理事務官を務めた。1892年、ウォード・ヘッドリーを破って市検察官に当選した。1894年、ホプキンス郡検察官に立候補したが、ロイ・サーモンに17票差で敗れた。 ラフーンは1894年1月31日に、マディソンビルのルシール・ホテルでメアリー・"メイ"・ブライアント・ニスベットと結婚した。この夫婦には3人の娘が生まれた。妻のメイは夫の政治活動を支えるだけでなく、自らも政治に活動的だった。1932年から1960年の民主党全国大会では毎回ケンタッキー州の代表となり、1932年にフランクリン・ルーズベルトが初めて大統領選挙に出馬した時は、活発に応援した。1897年、家計を補うためにルビー・ラフーンはフェニックス保険会社マディソンビル支店の共同経営者になった。1901年にはその持ち分を売却し、再度郡検察官に立候補した。ラフーンは3,335票を獲得し、対抗馬のトマス・E・フィンリーの2,910票を抑えて当選した。1905年には再選を果たし、ホプキンス郡の検察官で再選を果たした初めての者になった。 1907年、ラフーンは州財務官に立候補した。民主党予備選挙では無投票で選ばれたが、選挙では民主党全体が敗北した。1911年には州の監査官に立候補したが、このときは予備選挙でヘンリー・ボスワースに敗れた。同年、民主党州大会ではホプキンス郡の代表の1人に選ばれた。1912年、州議会が州保険審査委員会を州監査官の下に創設する法案を成立させ、ラフーンは保険分野での経験があり、また党への忠誠心も高かったのでその報償として、ボスワースから委員長に指名された。1915年、ラフーンは第4司法地区の州検察官に立候補した。その地区はホプキンス郡、コールドウェル郡、クリッテンデン郡、リビングストン郡で構成されていた。しかし、予備選挙でJ・エリオット・ベイカーに敗れ、ベイカーも共和党のチャールズ・ファーガソンに敗れた。 1918年9月、ラフーンはテキサス州サンアントニオに移転し、そこで法律事務所を開き、ガルベストン近くで柑橘類の事業を始めた。ラフーンはこれを恒久的な移転にするつもりだったが、数か月後に家族の元に帰ったときに、友人がケンタッキー州に戻ってくるよう督励したので、僅か3か月のテキサスだけで復帰することになった。1921年、第4司法地区判事に立候補した。予備選挙ではプリンストン出身の候補者トライス・ベネットを破り、マリオン出身の共和党候補で現職のカール・ヘンダーソンと対戦することになった。1921年11月8日の選挙では地区内の全ての郡を制してラフーンが当選した。その最初の任期では、ラフーンが下した判断のうち7%のみが上級審である控訴裁判所で覆されただけであり、当時の第4司法地区としては新記録になった。1927年にも6年間任期に再選された。
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