沿革と文面とは? わかりやすく解説

沿革と文面

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/26 02:03 UTC 版)

斥和碑」の記事における「沿革と文面」の解説

思想ないし思想傾向としての衛正斥邪は、国家の「正学」である朱子学強力に擁護して洋学キリスト教はじめ異端の学を徹底的に排除しようというもので、全国展開され書院によって一般的に普及浸透していたが、それを政治的な原理として強力に進めようとしたのが1864年より始まる大院君政権であった若年の王高宗実父として執権にぎった興宣大院君は、衛正斥邪政策強力に推し進め新興宗教である東学西洋からもたらされ天主教カトリック教会)に激し弾圧加えたまた、「洋夷」すなわち西欧諸国勢力朝鮮半島沿岸におよぶや、大院君はこれを強硬に排撃したため丙寅洋擾辛未洋擾呼ばれる事件起こった。このとき、興宣大院君は、朝鮮全土八道四郡に「斥和碑斥洋碑)」を建立した碑の建立は、辛未洋擾のあった同治10年4月1871年6月)から始まった。この碑には、 洋夷侵犯 非戦則和 主売国(洋夷侵犯する戦いを非とするは則ち和なり。和を主するは売国なり) の文面刻まれており、西洋諸国との和親断固拒絶して戦争訴えて鎖国維持するとの固い意志を示すものであったまた、裏面には、 戒我萬年子孫 丙寅辛未立(我が万年子孫戒む丙寅作、辛未立) が刻され、これを祖法として子々孫々もこれにしたがうべきことを示した多く花崗岩製で、漢城(現、ソウル特別市)はじめ朝鮮各地交通の要衝200か所に建てられた。その後大院君政権は、西洋文明受け入れた日本西洋諸国同一視して(倭洋一体)、通商求め日本に対して強硬な姿勢をとった。この碑は、外国侵略撃退するうえでは成果挙げたが、朝鮮近代化遅らせる結果しかもたらさなかったと評価される光緒8年8月1882年9月)、閔氏政権対する「旧軍兵士反乱から起こった壬午軍乱清国軍の興宣大院君拉致によって終結すると、大院君の子息で朝鮮王の高宗教書をくだし、開国開化国是とすること、邪教退けるが西洋技術制度は学ぶべきことを明示し斥和碑撤去命じた。 現在は、ソウル釜山慶州慶尚道東莱郡咸陽郡忠清道清州市など大韓民国国内で約30基の遺物確認されている。

※この「沿革と文面」の解説は、「斥和碑」の解説の一部です。
「沿革と文面」を含む「斥和碑」の記事については、「斥和碑」の概要を参照ください。

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