母・喜美枝との二人三脚時代
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「美空ひばり」の記事における「母・喜美枝との二人三脚時代」の解説
1963年、喜美枝は岡田茂に「お嬢のこれからの生き方についてどう思う?」と相談した。ひばりはそれまで銀幕を中心に活躍し、東映の専属として東映時代劇を支えていたが、岡田は既に東映を時代劇から現代劇中心に転換したいという考えを持っていたから「ひばりちゃんの時代劇はリアリズムからかけ離れたところが大衆にとって魅力。現代劇では魅力は発揮できないと思う。これからはテレビと舞台だろう」と進言した。浅草国際劇場での正月公演の客入りが悪くなっていたことから、喜美枝がひばりの再出発として新宿コマ劇場から要請のあった初の座長公演を田岡に相談せずに決めたため、浅草の公演を仕切っていた田岡の逆鱗に触れ、岡田に泣きつき何とか田岡の怒りを鎮めた。揉め事が起こると喜美枝は決まって岡田を頼った。さらに喜美枝は、岡田に新宿コマの舞台演出を気心知れた沢島忠を希望した。しかし沢島は当時岡田と共に東映任侠路線の扉を開いた東映と専属契約を結ぶメイン監督である。当時は五社協定があり、東宝系の新宿コマでの長期公演の仕事など無理難題であった。喜美枝は娘の為なら、たとえ火の中水の中というような人で、これも岡田の尽力で何とか沢島の貸し出しが決まり、東映のメイン監督の一人だった沢島は、これを切っ掛けにひばりの座付き作者のようになって映画界から遠ざかった。 1964年5月、新宿コマ劇場で初の座長公演を行う。それまで歌だけのステージに芝居を加える舞台公演の第一号であった。演技者としての活動の場を次第に映画から舞台に移し(初の座長公演は『ひばりのすべて』、『女の花道』)、同劇場のほか、名古屋の御園座、大阪の梅田コマ劇場にて長年にわたり座長を張り続けた。離婚後のひばりを常に影となり支え続けたのが、最大の理解者であり、ひばりを誰よりも巧みにプロデュースする存在となっていた母・喜美枝だった。ひばりは傍らに喜美枝を従えて日本全国のコンサート会場・テレビ出演なども精力的に活動した。当時のマスコミからはステージママの域を越えた存在として、「一卵性親子」なるニックネームを付けられた。 1970年8月日系ブラジル人の求めに応じてサンパウロでブラジル公演。 1970年、第21回NHK紅白歌合戦で紅組司会・大トリを担当。紅白史上初の組司会とトリの兼任である(組司会と大トリの兼任は女性に限れば唯一)。この時の歌唱曲は弟・かとう哲也作曲の「人生将棋」。歌手兼司会の前例はあったが、組司会がトリを務めるということはまだなかったため、ひばりが紅組司会に決まった時点で、紅組トリは青江三奈(当時女性歌手のヒットNo.1)との構想が固まっていた。ところがひばりは司会発表会見で「お話を頂いた時は司会だけで歌手としては出場できないのでは…と思いました。来年は歌手生活25周年にもあたります。やはり歌手としてはトリを歌いたい」と発言、結局ひばりの紅組司会兼大トリが半ば強引に決定した。 この時期も田岡一雄は父親代わりの存在としてひばりを庇護し、ひばりは1981年の田岡の葬儀にも出席している。この暴力団との関係が後の「ひばり・スキャンダル」に繋がることになった。
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