歴NO MAS CUBITOS史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/18 20:16 UTC 版)
「ベレス=マラガ」の記事における「歴NO MAS CUBITOS史」の解説
ムニシピオ内では鉄器時代より人の定住の痕跡があるが、最初に確かな記録を残した定住者は紀元前8世紀にやってきたフェニキア人である。河口付近に定住した彼らは、ノズルやスラグという金属加工品を遺している。彼らは港での貿易も行い、アッティカで作られたギリシャのアンフォラ(油の輸送に用いられた)も見つかっている。その後やってきたローマ人たちはフェニキアとは別の場所に定住しネクロポリスを遺した。彼らはこの地で製塩、ガルムの生産を行っていた。 イスラム支配下のベレス=マラガは、Ballax、Ballix、Aballix、Ballix-Malicaなどの名称で呼ばれた。イスラム教徒は戦略的に価値のある、定住地で最も標高の高い場所に砦を築いた。この砦は山地の西の尾根に広がっていた。13世紀から15世紀、ベレス=マラガはナスル朝グラナダ王国有数の都市であった。イドリースィー、イブン・バットゥータら文筆家が記述している。この時代に人口が急増した結果、防衛用の砦近くまで町が拡大し、スラムが生まれていた。メディナの外には農民が暮らす一帯があった。 カスティーリャ王国の止まらぬ侵攻のすえ、1487年4月27日、アラゴン王フェルナンド2世はベレス=マラガを包囲した。 陥落後、町にいたイスラム教徒たちは財産を抱えて町を退去することが許された。しかし農民たちはこの地にとどまるよう命じられた。ナスル朝の進んだ農業技術と高い生産性を維持することを、新しい権力者たちが求めたからである。ところがムデハルたちは新たな主人たちの迫害を頻繁に受けて次第に自分たちの土地を没収され、1488年にネルハとトロックスでムデハル反乱が起きた。 グラナダの陥落前から、新たな移住者たちが低アンダルシア、エストレマドゥーラ、ムルシア、カスティーリャからやってきた。彼らの多くが軍人であった。移住者には土地が割り当てられ、残った土地は教会に寄進された。征服直後から、キリスト教徒の支配者たちは都市の形態を変え始めた。新たな広場、宗教施設をつくり、かつてのモスクを教会とした。 17世紀、当時スペインが巻き込まれていた戦渦と、疫病によりベレス=マラガの人口は減少した。同時代、ベルベル人とトルコ人の海賊が頻繁に町を襲撃した。スペイン継承戦争でブルボン家を支持したベレス=マラガでは、1704年8月23日にマラガの海戦が起きた。 19世紀初頭は災難の時代であった。黄熱病の流行で人口の約6割が死に、ナポレオンの侵略後はコレラが町で流行した。19世紀半ばには経済復興をみせたものの、フィロキセラの流行でブドウ畑が壊滅的な被害を受けた。加えて1884年に起きた地震でベレス=マラガ一帯は荒廃し、サトウキビ栽培でわずかに息を吹き返しただけであった。スペイン内戦では、マラガを陸海から攻撃したフランコ軍が優勢となると、マラガ周辺住民の大多数が戦火を逃れて人民戦線支配下のアルメリアへ移動を始めた。移動する人々をフランコ軍が攻撃し、多数の死傷者が出た(es、マラガ=アルメリア間の虐殺)。 1960年代から、ベレス=マラガは観光ブームがおき、短期滞在者用の住宅が多くつくられた。
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