橋合戦とは? わかりやすく解説

橋合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 14:55 UTC 版)

平家物語の内容」の記事における「橋合戦」の解説

以仁王らは途中宇治平等院休息。そこを平知盛重衡軍が攻める。頼政宇治橋橋板をはずす。平家軍は

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橋合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 03:38 UTC 版)

以仁王の挙兵」の記事における「橋合戦」の解説

23日園城寺衆議が行われ、六波羅平氏本拠夜討提案されたが、平氏心を寄せる者が議論を長引かせ夜討立ち消えとなったこの間平氏調略行い延暦寺大衆切り崩した。園城寺危険になったため、25日夜、頼政以仁王1000余騎を率いて園城寺脱出し南都興福寺向かった『平家物語』では知盛重衡大将とする平氏2万8000騎でこれを追ったとするが、この数は誇張で、『玉葉によれば26日平氏家人藤原景高飛騨守景家の嫡男)・同忠綱先発隊として300騎を率いて出動し平等院頼政以仁王追い付いて南都入り阻んでいる。追って大将軍として平重衡平維盛宇治派遣された。南都防御の間を与えず直進しようと言いつのる重衡維盛対し同行した維盛乳母父・藤原忠清は「若い人軍陣の子細を知らず」と諫めて制止している(『山槐記5月26日条)。頼政の兵は、わずか50であったという。夜間の行軍疲れた以仁王幾度も落馬しやむなく宇治橋橋板外して宇治平等院休息を取ることになった26日宇治川挟んで両軍対峙した。『平家物語』のこの場面は「橋合戦」と呼ばれる頼政の軍は宇治橋橋板落として待ち構え、川を挟んでの矢戦となった『平家物語』には、頼政方の五智院但馬浄妙明秀一来法師といった強力の僧兵たちの奮戦描かれ攻めあぐねた平氏家人藤原忠清は、知盛河内路への迂回進言した。下野国武士足利俊綱忠綱父子はこれに反対し、「騎馬武者馬筏堤防作れば渡河は可能」と主張した17歳忠綱宇治川急流に馬を乗り入れると、坂東武者300余騎がこれに続いたという。渡河許したため、頼政宇治橋捨てて平等院まで退き以仁王逃そう防戦した。頼政方は次第人数減り、兼綱は討たれ、仲綱は重傷負い自害した頼政もはやこれまで念仏をとなえ、渡辺唱介錯腹を切った。仲綱の嫡男・宗綱、頼政養子仲家木曽義仲異母兄)、その子仲光らも、相次いで戦死自害遂げた。 『玉葉』(『治承4年5月26日条』)によれば先発隊に合流した平氏軍藤原景高部隊橋桁伝って攻撃をしかけ、藤原忠清部隊が河の浅瀬から馬を乗り入れ宇治川渡った平等院頼政軍と戦闘となり、源氏方は少数の兵で死を顧みず奮戦し、特に頼政養子・兼綱の戦いぶりは、あたかも八幡太郎義家のようであったという。 以仁王30騎に守られ辛うじて平等院から脱出したが、藤原景高軍勢追いつかれ、山城国相楽郡光明山鳥居の前で、敵の矢に当たって落馬したところを討ち取られた(『吾妻鏡』)。

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