橋合戦
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以仁王らは途中、宇治平等院で休息。そこを平知盛・重衡軍が攻める。頼政は宇治橋の橋板をはずす。平家軍は
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橋合戦
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23日、園城寺で衆議が行われ、六波羅(平氏の本拠)夜討が提案されたが、平氏に心を寄せる者が議論を長引かせ、夜討は立ち消えとなった。この間に平氏は調略を行い、延暦寺大衆を切り崩した。園城寺も危険になったため、25日夜、頼政と以仁王は1000余騎を率いて園城寺を脱出し、南都興福寺へ向かった。 『平家物語』では知盛・重衡を大将とする平氏は2万8000騎でこれを追ったとするが、この数は誇張で、『玉葉』によれば、26日に平氏家人の藤原景高(飛騨守景家の嫡男)・同忠綱が先発隊として300騎を率いて出動し、平等院で頼政・以仁王に追い付いて南都入りを阻んでいる。追って大将軍として平重衡・平維盛が宇治へ派遣された。南都に防御の間を与えず直進しようと言いつのる重衡・維盛に対し、同行した維盛の乳母父・藤原忠清は「若い人は軍陣の子細を知らず」と諫めて制止している(『山槐記』5月26日条)。頼政の兵は、わずか50騎であったという。夜間の行軍に疲れた以仁王は幾度も落馬し、やむなく宇治橋の橋板を外して宇治平等院で休息を取ることになった。 26日、宇治川を挟んで両軍は対峙した。『平家物語』のこの場面は「橋合戦」と呼ばれる。頼政の軍は宇治橋の橋板を落として待ち構え、川を挟んでの矢戦となった。『平家物語』には、頼政方の五智院但馬や浄妙明秀、一来法師といった強力の僧兵たちの奮戦が描かれ、攻めあぐねた平氏の家人・藤原忠清は、知盛に河内路への迂回を進言した。下野国の武士足利俊綱・忠綱父子はこれに反対し、「騎馬武者の馬筏で堤防を作れば渡河は可能」と主張した。17歳の忠綱が宇治川の急流に馬を乗り入れると、坂東武者300余騎がこれに続いたという。渡河を許したため、頼政は宇治橋を捨てて平等院まで退き、以仁王を逃そうと防戦した。頼政方は次第に人数が減り、兼綱は討たれ、仲綱は重傷を負い自害した。頼政はもはやこれまでと念仏をとなえ、渡辺唱の介錯で腹を切った。仲綱の嫡男・宗綱、頼政の養子・仲家(木曽義仲の異母兄)、その子仲光らも、相次いで戦死や自害を遂げた。 『玉葉』(『治承4年5月26日条』)によれば、先発隊に合流した平氏軍の藤原景高の部隊が橋桁を伝って攻撃をしかけ、藤原忠清の部隊が河の浅瀬から馬を乗り入れて宇治川を渡った。平等院で頼政軍と戦闘となり、源氏方は少数の兵で死を顧みず奮戦し、特に頼政の養子・兼綱の戦いぶりは、あたかも八幡太郎義家のようであったという。 以仁王は30騎に守られて辛うじて平等院から脱出したが、藤原景高の軍勢に追いつかれ、山城国相楽郡光明山鳥居の前で、敵の矢に当たって落馬したところを討ち取られた(『吾妻鏡』)。
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