標葉氏統治時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:14 UTC 版)
平安時代末期の保元年間(1156年 - 1159年)になると、請戸城を本拠地とする標葉隆義(海道小太郎成衡(清原成衡)の四男と伝わる。)の統治下に入り、これ以後、現在の双葉町は標葉郡を領土とする標葉氏の統治下に置かれた。 1189年(文治5年)源頼朝の奥州征伐では標葉氏を始めとした岩城氏一族は奥州藤原氏と関係が深かったが、鎌倉方として参陣し本領を安堵された。鎌倉時代後期には岩城氏から完全に独立した地位を築いている。 1331年(元弘元年)に、標葉隆連(標葉氏八代当主標葉持隆の三男)が父の命令により新山城を築城する。 鎌倉幕府滅亡後の後醍醐天皇の建武の親政の際も標葉氏は本領を安堵され北畠顕家に従い秋田、津軽方面の北条方の残党との戦いなどに従軍し以後も西上転戦した。 南北朝時代は、霊山にいらした義良親王(後の後村上天皇)、北畠顕家に従い南朝方に参加した(霊山が落城した際に、追っ手の目を欺くため旅芸人の装束をして踊りながら逃げ落ちたとの伝承がある。この故事が元となり宝財踊りとして現在まで伝わっている。)が、後に北朝方に服属した。その後も室町幕府のもと周囲との同盟を巧みに結び独立を保ち、1410年(応永17年)には、海道の岩城氏、相馬氏、楢葉氏など10氏の岩崎郡、岩城郡、楢葉郡、標葉郡、行方郡の五郡で五郡一揆を結び相互に協力をした。 1442年(嘉吉2年)に二代新山城主の標葉隆重が当主の標葉清隆の家臣を殺害し、それに怒った標葉清隆に攻められ新山城が落城すると隆重は岩城氏領に逃れた。その後も家中の混乱が続くと、岩城氏が白河結城氏と結び1474年(文明6年)に同族の楢葉氏を滅ぼし、標葉氏に対し攻勢を強め相馬氏に対抗した。このころには北の相馬氏当主相馬高胤からは不倶戴天の敵とみられており、標葉氏は敵対関係になった海道筋の岩城氏と相馬氏と南北ともに領地を接することとなった。 その後、標葉氏は1492年(明応元年)12月に本拠地である権現堂城(浪江町)が攻め落とされ相馬氏により滅ぼされた。双葉町域を治めていた三代新山城主標葉隆豊はこの戦いには相馬方として参陣した。 なお、双葉町の合併前の新山町は、1331年(元弘元年)に築かれた新山城に因んだ名称である。
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