構造と位置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/28 14:00 UTC 版)
「バスティッド (都市)」の記事における「構造と位置」の解説
ローマ時代の例として、グリッド・パターンを持ち中心にフォルムを備えたカストルムがある。先にローマ人が行った都市設計が残る中世都市、ベジエ、ナルボンヌ、トゥールーズ、オランジュ、アルルにカストルムの痕跡が残っている。バスティッドのある地方は、西洋における古代後期の最後の前哨の地であった。 バスティッドの正確な定義は学術的議論を介して行われてきた。こうしたバスティッドは現在一般的には、一人の建設者が単一のユニットとして設計し、構築された町であると述べられている。バスティッドの多くは通りが交差するグリッド・パターン(碁盤の目状)で設計され、広い大通りが町のプランを分割し、しばしば狭い小路がインシュラエ(insulae;インスラ)または区画を分割している。バスティッド内にはポルチコに囲まれた、市場の開かれる中央広場があり、この広場には大通りとなっている軸が全て通過するようになっている。広場は正方形が大半だが、時には長方形であったり、まれに平行四辺形や円形もあった。広場の寸法は40m×40mであったり、70m×70mと、異なった。しかし、バスティッドの重要性と広場の大きさには直接の関係はなかった。また、多くの場合、広場は井戸や噴水で飾られ、時には住民へ水を供給するため貯水タンクが置かれていた。 我々がバスティッドの広場を歩くとき、そこにしばしばポルチコがあることに注意しなければならない。これはバスティッド建設当時行われた開発ではない。実際には、バスティッド建設後に住宅のファサードに追加された。建設初期は木造のポルチコだったが、後の時代に石造に建て替えられたのである。祝宴や大規模行事が開かれる広場は魅力的な場所で、いわゆるステータス・シンボルであった。実際、広場を見下ろすように建てられた広場を取り巻く住宅には、多くの場合、バスティッド建設当初からの古い家系が住んでいた。広場には市場のために多くの場合、大きな屋根を備えた公共のアルが置かれていた。ポルチコと同様に、アルはバスティッドの完成後に建設された。アルは、強い日差しと雨から商人たちを守っていた。アルの建物の上階には常に町の有力者コンシュル(fr)の政治権力があった。アルには鐘が置かれていることが多かった。市場の開かれる広場はしばしば、バスティッドを細分化する基準寸法(モジュール)を提供していた。 徴税が容易に行われることと、グリッド・パターンのレイアウトが据えられた理由は異なっていた。村としてモジュールによる徴税の基準単位があったし、村の中央には中央エリアが編成されていたのである。バスティッドのかたちは、『相互作用、便宜、実用主義、法的妥協、そして利益による摩擦で生まれた』ものだったと、エイドリアン・ランドルフは1995年に推測している。さらに稀な場合だが、こうした計画都市が円形の設計で開発された。一部のバスティッドは幾何学的に設計されなかったのである。バスティッドの幾何学的形状のブロックは、町が内部に絞り込まれたような窮屈な枠組みではなかった。『それは密接な網に近かった。』とランドルフは論評している。 建設者は一般的に、都市の周りに要塞化する城壁をつくらなかった。彼らは、住民たちが税金や補助金で城壁を建設するよう仕向けた。バスティッドの建設が国境近くであっても城壁建設はまれであった。確かに、アルビジョワ十字軍が終わってから百年戦争までの間の時代は平和であった。リブルヌが良い例である。建設から10年後、住民たちは主君に壁の建設の費用拠出を求めた。費用を受け取った住民たちは自分たちの町を美しく飾り立てたのである。石壁の秀でた例はサントゥラエ(fr)で今も目にすることができる。百年戦争初期には、防衛設備が存在しないために多くのバスティッドが破壊された。
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