桂小五郎との出会い
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桂小五郎と出会った当時の幾松は、山科の豪家が大層贔屓にしていた。桂がこれに張り合い、互いに自分だけのものにしようと随分お金を使ったが、最後は伊藤博文が刀で脅し幾松は桂のものになったと、『松菊木戸公逸話』の中で、児玉愛二郎は語っている。以後、桂が命の危険に晒されていた最も困難な時代に彼を庇護し、必死に支えつづけた。 元治元年(1864年)6月、池田屋事件が起こる。続いて起こる禁門の変以降、長州藩が朝敵とされ、桂は幕府に追われる身となる。二条大橋周辺に乞食の姿となって隠れ潜んでいた桂に、幾松はよく握り飯を持っていったと言う逸話はその頃の事であると考えられる。但し、実際に潜んでいたのは5日ばかりと伝えられる。また、新撰組局長・近藤勇に連行され、桂の居場所を聞かれたこともあったと伝えられている。 桂は、その元治元年(1864年)8月から慶応元年(1865年)4月にかけての間、商人・廣戸家の援助を受けながら出石に潜伏する。名前を廣江孝助と変え、ある時は荒物屋主人、ある時は寺男となり、転々と名所を変えながら潜伏し続けた。この潜伏中、幾松がある会津人に侵されかけたことがあり、その際三味線を折って投げつけ対馬藩邸に助けを求めたという伊藤博文の直話が残っている。 桂が逃れた後、幾松は長府藩士・奥善五六郎と、京師東山の割烹店の主・曙久斎の三名で対馬藩濱屋敷に匿われていたが、次第に幕府の探索が厳しくなってきたため、対馬藩士多田荘蔵が大坂より馬関へと逃した。出石ではなく馬関へと向かわせたのは、幾松の身の危険を案じての事と思われる。 その後、出石潜伏中の桂を迎えに行ったのも幾松である。慶応元年2月初め廣戸甚助が馬関にやってきて、桂が出石に潜伏しているのを知った幾松は、村田蔵六から桂宛の手紙と五十両を預かり、2月7日甚助を案内人に出石へと向かう。が、途中、大阪で甚助が博打で五十両を使い果たし姿を消してしまい、幾松は一人出石まで迎えに行く事となったようだ。3月3日出石に着き桂と再会するが、この時の旅が余程辛かったようで、のち甚助が出石に戻った時、「木戸公がいくら取り成しても夫人は横を向いていた」と、甚助の妹スミは『松菊木戸公逸話』の中で語っている。この時、桂は幾松等を伴って城崎温泉にも行っている。 この出石から桂は幾松・甚助・その弟の直蔵を伴い馬関へ帰国する。途中神戸・金毘羅山などに立ち寄る。 桂の友人の手紙では居をどこに構えるかという内容の手紙もあり、三田尻などの名も挙がっていたが、慶応元年の末か慶応2年初め頃から糸米で桂と暮らし始めたようだ。
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