桂小五郎との出会いとは? わかりやすく解説

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桂小五郎との出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 07:27 UTC 版)

木戸松子」の記事における「桂小五郎との出会い」の解説

桂小五郎出会った当時幾松は、山科豪家大層贔屓にしていた。がこれに張り合い互いに自分だけのものにしようと随分お金使ったが、最後伊藤博文が刀で脅し幾松のものになったと、『松菊木戸逸話』の中で、児玉愛二郎語っている。以後が命の危険に晒されていた最も困難な時代に彼を庇護し必死に支えつづけた元治元年1864年6月池田屋事件が起こる。続いて起こる禁門の変以降長州藩朝敵とされ、幕府追われる身となる。二条大橋周辺乞食の姿となって隠れ潜んでいたに、幾松はよく握り飯持っていったと言う逸話その頃の事であると考えられる。但し、実際に潜んでいたのは5日ばかりと伝えられるまた、新撰組局長近藤勇連行され居場所聞かれたこともあったと伝えられている。 は、その元治元年1864年8月から慶応元年1865年4月にかけての間、商人廣戸家の援助を受けながら出石潜伏する。名前を廣江孝助と変え、ある時は荒物屋主人、ある時は寺男となり、転々と名所変えながら潜伏し続けた。この潜伏中幾松がある会津人に侵されかけたことがあり、その際三味線折って投げつけ対馬藩邸に助け求めたという伊藤博文直話残っている。 逃れた後、幾松長府藩士・奥善五六郎と、京師東山割烹店の主・曙久斎の三名対馬藩濱屋敷に匿われていたが、次第幕府探索厳しくなってきたため、対馬藩多田荘大坂より馬関へと逃した出石ではなく馬関へと向かわせたのは、幾松身の危険案じて事と思われるその後出石潜伏中迎え行ったのも幾松である。慶応元年2月初め廣戸甚助馬関にやってきて、出石潜伏しているのを知った幾松は、村田蔵六からの手紙と五十両を預かり2月7日甚助案内人出石へと向かう。が、途中大阪甚助博打五十両を使い果たし姿を消してしまい、幾松一人出石まで迎えに行く事となったようだ3月3日出石着き再会するが、この時の旅が余程辛かったようで、のち甚助出石戻った時、「木戸公がいくら取り成しても夫人は横を向いていた」と、甚助の妹スミは『松菊木戸逸話』の中で語っている。この時、幾松等を伴って城崎温泉にも行っている。 この出石から幾松甚助・その弟の直蔵伴い馬関帰国する途中神戸金毘羅山などに立ち寄る友人の手紙では居をどこに構えるかという内容の手紙もあり、三田尻などの名も挙がっていたが、慶応元年の末か慶応2年初めから糸米で暮らし始めたようだ。

※この「桂小五郎との出会い」の解説は、「木戸松子」の解説の一部です。
「桂小五郎との出会い」を含む「木戸松子」の記事については、「木戸松子」の概要を参照ください。

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