松本中学教師(1915-1918)
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「野口源三郎」の記事における「松本中学教師(1915-1918)」の解説
1915年(大正4年)3月26日、東京高師を卒業し、中等学校の地理科・歴史科・体操科の教員免許を取得した。そして同年4月1日付で、長野県松本女子師範学校(現・信州大学教育学部)教諭兼訓導と長野県松本中学校(現・長野県松本深志高等学校)教諭を兼務し、長野県松本市に赴任した。赴任を前に丸善へ立ち寄り、偶然にもマイク・マーフィー(英語版)の“Athletic Training”の原書を入手した。松本女子師範学校での勤務は1916年(大正5年)3月で終わり、以後は松本中単独の教師となる。プライベートでは1917年(大正6年)4月1日に東京府渋谷町(現・東京都渋谷区)出身の生駒豊子と結婚している。 松本中教師としての任務は、体育主任として「学校体操教授要目」に準拠した新たな指導方針を策定し、実行することであった。体操科の授業時数は5時間で、当時は適宜指導することとされた「撃剣及柔術」(剣道と柔道)を完全実施したこと、学期ごとに身体検査を実施しその成績を見て授業計画を立案・実行したことが特筆される。校友会ではスポーツの普及に努め、徒歩部(現・陸上競技部)、剣道部、游泳部(現・水泳部)の部長を兼任し、スケートの導入も図った。特に徒歩部は野口が自ら設立した部であり、マーフィーの本を手引きとして自身の競技力向上に向けて練習に励んだだけでなく、東京からスパイクシューズを数足仕入れて生徒に共用させ、ともに汗を流した。校内競技会では部長ながら100ヤード、400m、砲丸投、円盤投に「特別出場」して圧倒的な強さを見せて優勝するとともに、生徒に陸上競技への参加を促した。また野球害毒論の影響で中断していた長野県中等学校聯合運動会の復活に際して陸上競技を採用するよう尽力し、1917年(大正6年)10月15日・16日に長野中学校(現・長野県長野高等学校)で開かれた聯合運動会は、長野県における陸上競技大会の先駆けとなった。 選手としての野口は1916年(大正5年)7月20日から8月28日にかけて大日本体育協会(体協、現・日本スポーツ協会)が主催し、金栗四三らが指導した第2回夏期陸上競技練習会(千葉・北条)に参加し、途中で開かれた練習大会(8月13日)では走幅跳(18フィート5インチ≒5m61)と220ヤード(27秒4/5)で1位、棒高跳で2位、1マイルで3位と活躍した。9月2日・3日の第3回極東選手権(東京・芝浦)の予選会では十種競技に出場して優勝、日本代表の座を得た。当の極東選手権本番(1917年〔大正6年〕5月)でも十種競技で優勝して日本チームの優勝に貢献した。同年の日本選手権(鳴尾運動場)では棒高跳(3m)で優勝、五種競技と400m(55秒4)で2位に入賞した。 野口の松本時代はわずか3年間であったが、教え子の中から日本国内大会で上位を占める選手が現れるなど、長野県の陸上競技の黎明期を切り開き、発展の端緒を作る上で多大な貢献をした。野口本人にとっても、松本時代は若き教師時代の楽しかった思い出として胸に刻まれていたようである。
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