松本中学教師とは? わかりやすく解説

松本中学教師(1915-1918)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 03:35 UTC 版)

野口源三郎」の記事における「松本中学教師(1915-1918)」の解説

1915年大正4年3月26日東京高師卒業し中等学校地理科・歴史科・体操科の教員免許取得した。そして同年4月1日付で、長野県松本女子師範学校(現・信州大学教育学部教諭訓導長野県松本中学校(現・長野県松本深志高等学校教諭兼務し長野県松本市赴任した赴任前に丸善立ち寄り偶然にもマイク・マーフィー(英語版)の“Athletic Training”の原書入手した松本女子師範学校での勤務1916年大正5年3月終わり以後松本単独教師となる。プライベートでは1917年大正6年4月1日東京府渋谷町現・東京都渋谷区出身生駒豊子と結婚している。 松本教師として任務は、体育主任として「学校体操教授要目」に準拠した新たな指導方針策定し実行することであった体操科の授業時数は5時間で、当時適宜指導することとされた「撃剣柔術」(剣道柔道)を完全実施したこと、学期ごとに身体検査実施しその成績見て授業計画立案実行したことが特筆される校友会ではスポーツ普及努め徒歩部(現・陸上競技部)、剣道部游泳部(現・水泳部)の部長兼任しスケート導入図った。特に徒歩部は野口が自ら設立した部であり、マーフィーの本を手引きとして自身競技力向上に向けて練習励んだだけでなく、東京からスパイクシューズを数足仕入れて生徒共用させ、ともに汗を流した校内競技会では部長ながら100ヤード400m砲丸投円盤投に「特別出場」して圧倒的な強さ見せて優勝するとともに生徒陸上競技への参加促した。また野球害毒論影響中断していた長野県中等学校聯合運動会復活に際して陸上競技採用するよう尽力し1917年大正6年10月15日16日長野中学校(現・長野県長野高等学校)で開かれた聯合運動会は、長野県における陸上競技大会先駆けとなった選手としての野口1916年大正5年7月20日から8月28日にかけて大日本体育協会体協、現・日本スポーツ協会)が主催し金栗四三らが指導した第2回夏期陸上競技練習会(千葉北条)に参加し途中で開かれた練習大会8月13日)では走幅跳18フィート5インチ≒5m61)と220ヤード274/5)で1位、棒高跳2位、1マイル3位活躍した9月2日3日第3回極東選手権東京芝浦)の予選会では十種競技出場して優勝日本代表の座を得た当の極東選手権本番1917年大正6年5月)でも十種競技優勝して日本チーム優勝貢献した同年日本選手権鳴尾運動場)では棒高跳3m)で優勝五種競技400m55秒4)で2位入賞した野口松本時代はわずか3年であったが、教え子の中から日本国内大会で上位占め選手現れるなど、長野県陸上競技黎明期切り開き発展端緒作る上で多大な貢献をした。野口本人にとっても松本時代若き教師時代楽しかった思い出として胸に刻まれていたようである。

※この「松本中学教師(1915-1918)」の解説は、「野口源三郎」の解説の一部です。
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