東海道全線電化と快速への変更
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 15:05 UTC 版)
「京阪神快速」の記事における「東海道全線電化と快速への変更」の解説
1956年11月に米原駅 - 京都駅間が電化され、東海道本線の全線電化が完成した。これに伴い、草津・米原方面からの電車が京都駅以西の従来の急行電車の延長の形で走ることとなり、現在に至る京阪神の速達列車と中距離電車の一体化がこのときに始まった。ただし客車普通列車が大阪駅・三ノ宮駅・神戸駅と停車するのに対し、急行電車は従前のとおり元町駅にも停車した。 1957年9月25日に茨木駅 - 大阪駅間の旅客用複々線が完成した。10月1日から80系電車による準急列車が名古屋駅 - 大阪駅間に設定されることになったが、これにより料金が必要な準急と無料の急行電車が混在するのはおかしいという理由から、9月25日に「急行電車」を「快速電車」に名称を変更した。また同時に快速が高槻駅の構内改良(高槻電車区開設)に伴い同駅にも原則停車するようになるとともに、阪神間では内側線を走る一般の快速は芦屋駅、外側線を走る一部の快速は西ノ宮駅(現:西宮駅)に停車させることとなった。また80系が東海道線を通して走るようになったことにより、塗色統一の話が持ち上がり、湘南色に統一することとなって、9月11日に最初の塗色変更車が出場した。なお、1957年 - 1958年に準急新設と姫路駅までの電化に伴って登場した80系電車(300番台車)は、最初から湘南色の塗装で新製されている。 その後、1958年に姫路駅までの電化が完成したことによって、一部の快速が神戸駅以西に進出して姫路駅まで乗り入れ、兵庫駅・須磨駅・明石駅 - 姫路駅間の各駅の順に停車(一部の快速は須磨駅と西明石駅を通過。また朝上り・夕方下りの一部列車は明石駅 - 姫路駅間を途中加古川駅のみ停車の快速運転を実施)するようになって、西側でも中距離電車との一体化が始まった。1961年には、一等車(のちのグリーン車)を連結するようになった。 1964年には、宮原区に113系が51両新製配置され、9月から7両編成(TcMM'T'cMM'T'c)で一部の80系を置き換えて快速として運転が開始された。10月1日には新幹線開業に伴い、新設の新大阪駅が原則停車駅(高槻駅に停車する快速電車が停車)に追加された。 1966年10月にはサロ110の配置により一等車連結列車を113系に置き換え、サロ連結の基本編成を高槻電車区・宮原電車区は8両編成とし、サロ不連結の明石電車区車は基本7両編成となった。各電車区とも4両の付属編成をもち、7両 - 12両で運転されていた。1968年10月ダイヤ改正(よんさんとう)で快速の運転間隔を20分から15分に変更し、高槻駅と新大阪駅にすべての快速が停車するようになる。神戸駅発着系統は廃止され、西側は姫路方面と西明石駅発着の交互で運転されるようになった。なお、高槻電車区所属の80系は同ダイヤ改正を機に運用を離脱して全車転出したが、岡山・広島方面から乗り入れる80系がダイヤ改正後も快速として、1972年3月ダイヤ改正(よんななさん)まで残存していた。1970年3月には日本万国博覧会(大阪万博)開催に伴い、横須賀線から横須賀色(スカ色)113系が転入して輸送に用いられ、開催期間中は茨木駅に臨時停車していたが、開催終了後も常時停車となった。
※この「東海道全線電化と快速への変更」の解説は、「京阪神快速」の解説の一部です。
「東海道全線電化と快速への変更」を含む「京阪神快速」の記事については、「京阪神快速」の概要を参照ください。
- 東海道全線電化と快速への変更のページへのリンク