東寺一長者としての公務
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建武2年(1335年)10月14日、文観は故郷である播磨国(兵庫県)に戻り、かつて若手時代に世話になった宇都宮長老の供養を行った(『峯相記』)。文観が宇都宮長老の事業を引き継いで完成させた講堂は、西国第一の大堂と称されたという。この後、すぐに京都に戻って1週間後の21日には仁王経法を行じ、28日には仁王会を修している(『東寺長者補任』)。仁王経法とは密教で鎮護国家のために使用される最大秘法であり、仁王会とは顕教で護国のために行われる大きな法会であるから、相当に緊密で多忙なスケジュールである。 建武政権で真言宗の要職を独占した文観は、種々の儀式で後醍醐天皇の補佐を行った。10月30日に舞楽曼荼羅供(『東寺長者補任』)。閏10月8日に京都神護寺で仁王経大法および後醍醐天皇の御加持、15日に結縁灌頂、16日に空海由来の秘宝を用いて具支灌頂作法一夜之儀の伝授などを行っている(『瑜伽伝灯鈔』・『師守記』康永4年(1345年)5月10日条)。閏10月23日には仏舎利の分配を行い、17粒を後醍醐天皇に、1粒を後醍醐の寵姫である准三后阿野廉子に、1粒を恵鎮房円観に分与した(「東寺長者弘真仏舎利奉請状」)。また、12月2日に、後醍醐天皇は真言宗の秘宝の一つである金剛峯寺根本縁起を書写して手印を捺したが、これは父帝の後宇多上皇と同様の事例と考えられる。 同年12月13日には、三衣と鉢を東寺西院御影堂に施入した。三衣のうち五帖袈裟と九帖袈裟は空海のものの写しで宮中で相伝されてきた御物であり、七帖袈裟は空海が師の恵果から相伝したという。このうち、九帖袈裟は2006年時点でも東寺に現存している。また、同月25日には、河内国(大阪府)の天野山金剛寺に仏舎利を5粒施入している(『金剛寺仏舎利施入状』)。 以上のように、建武政権下で文観が多忙な仏教上の公務をこなし、東寺長者としての責務を果たしていたことがわかる。
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