東京市成立まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/26 08:22 UTC 版)
区名に採用されている「葛飾」は、古くは葛餝、勝鹿などとも書き、8世紀の正倉院文書、『万葉集』などにも言及される歴史ある地名で、かつての下総国と武蔵国、現在の東京都(墨田・江東・葛飾・江戸川の各区)、千葉県西部、埼玉県東部(及び茨城県の一部)にまたがる広範な地域を指した地名である。 現在の葛飾区の区域は、かつては武蔵国葛飾郡に属し、近世末には以下の1町38村が存在した。 新宿町(にいじゅくまち)、上小松村、下小松村、奥戸村、奥戸新田、曲金村、細田村、鎌倉新田、上平井村、中平井村、渋江村、四ツ木村、篠原村、宝木塚村、梅田村、川端村、原村、淡之須村(あわのすむら)、立石村、中原村、木ノ下村、上木下川村(かみきねがわむら)、下木下川村、上千葉村、下千葉村、小菅村、小谷野村、堀切村、柳原村、亀有村、青戸村、砂原村、金町村(かなまちむら)、柴又村、上小合村、下小合村、小合新田、猿ヶ又村、飯塚村 なお、上記の町村の中には本村から離れた地区に飛地を有するものもあり、近代以降は荒川放水路の開削に伴う行政界の変更もあって、上記1町38村の範囲は現行の葛飾区の範囲と完全には一致しない。上に挙げた他に、善左衛門村、隅田村、若宮村(以上、現・墨田区のうち)、上一色村(現・江戸川区のうち)の一部も現・葛飾区に含まれている。 明治維新以降、これらの葛飾郡の町村は武蔵知県事の支配を経て、明治2年1月(1869年3月)には小菅県に属した。明治4年7月(1871年8月)、廃藩置県が実施。同年11月(1871年12月)、従来の東京府、品川県、小菅県が廃止されて、新しい東京府が設置され、葛飾郡のうち小菅県管轄だった部分も東京府に編入されることとなった。同じ時期に府内は6大区・97小区に分けられた(いわゆる大区小区制)。明治7年(1874年)3月、区割りが見直され、あらためて11大区・103小区が設置された。後に葛飾区となる区域は、このうちの第11大区第1・4小区に属していた。 その後、郡区町村編制法の施行に伴い、大区小区制は廃止され、明治11年(1878年)11月2日、東京府下に15区6郡(荏原、南豊島、北豊島、東多摩、南足立、南葛飾)が置かれた。後に葛飾区となる区域は、このうちの南葛飾郡に属していた。 明治22年(1889年)、市制・町村制が施行され、東京市(15区からなる)が成立、府下の6郡は、既存の町村が廃置分合(合併)して85町村となった。85町村のうち南葛飾郡に属していたのは1町23村で、このうち現在の葛飾区の区域に該当するのは新宿町、奥戸村、立石村(後の本田村)、南綾瀬村、亀青村、金町村、水元村の1町6村と、平井村、大木村の各一部である。平井村と大木村は、荒川放水路の開削に伴い、大正3年(1914年)に廃止。平井村の区域は奥戸村と小松川町(現・江戸川区)に、大木村の区域は本田村と吾嬬町(現・墨田区)に分割編入された。 その後、以下の4村が葛飾区成立以前に町制を施行している(立石村は改名も)。 金町村 - 大正14年(1925年)町制施行して金町となる。 立石村 - 昭和3年(1928年)町制施行して本田町となる。( 明治23年(1890年)本田村(ほんでんむら)に改称。) 南綾瀬村 - 昭和3年(1928年)町制施行して南綾瀬町となる。 奥戸村 - 昭和5年(1930年)に町制施行して奥戸町となる。 なお、明治22年の町村合併によって成立した新町村とそれ以前の旧町村との対応関係については、飛地等が多数あって煩雑なため、後に節をあらためて説明する。
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