東亜そしてマキノとは? わかりやすく解説

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東亜そしてマキノ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/18 15:06 UTC 版)

曾根純三」の記事における「東亜そしてマキノ」の解説

1898年明治31年9月13日大阪市東区現在の中央区 (大阪市)北部東部)に生まれる。香川県出生説あり、本人否定している。旧制大阪府天王寺中学校現在の大阪府立天王寺高等学校)を卒業したのち、神戸のパルモア英学院(現在のパルモア学院専門学校)を中退証券会社勤務警察官経て劇団脚本部にいたところ、撮影技師三木茂杉山公平知り合い西宮市甲陽園にある東亜キネマ甲陽撮影所脚本部に入社した25歳のとき、「曾根純三名義で、1924年大正13年7月31日公開本山裕児監督の『熱血洗礼』で脚本家としてデビュー同作杉山公平撮影担当、のちにスター子役となる松尾文人本格デビュー作でもあった。同年内に井上金太郎監督の『地獄』と3本短篇オムニバス映画本山監督の『血は踊る』の脚本書きそれぞれ公開された。当時同社の甲陽・等持院の両撮影所長だった牧野省三が「マキノ青司名義総指揮監督をした、1925年大正14年)の正月第2弾東亜等持院作品国定忠治』の脚本馬場春宵との共同執筆抜擢された。新国劇最大のヒットナンバーで、行友李風原作沢田正二郎主演決定版であった。 その翌月2月25日オリジナル脚本書いた子役松尾文人の初主演作おもちゃ屋小僧』が公開され26歳映画監督としてデビューした甲陽撮影所で、3本監督をし、阪田重則監督の『大地微笑む』前・後篇、山本嘉次郎監督の『爆弾児』の脚本書いて同年6月牧野東亜キネマから独立して設立した京都マキノ・プロダクション御室撮影所へと移籍した移籍第1作は、おなじく移籍してきた松尾主演中村三郎息子演じた寺小屋騒動』で、同年中に公開されている。監督デビューの年にすでに5本を監督した1926年大正15年)は、1月4日公開曾根オリジナル脚本による清川主演作黒白双紙』に始まり曾根監督作品12本も公開された。翌月2月の『豆本太閤記以降松尾主演作を6本つづけて撮るわけだが、3月作品小剣豪』の原作クレジットから、「椎名良太名義使いはじめた柳妻麗三郎が「チャップリン似た男」を演じた活動時代』は、チャーリー・チャップリンの『キッド』(1921年)に影響受けた作品である。 1927年昭和2年4月に嵐長三郎(のちの嵐寛寿郎)が同社入社、嵐の入社第1作であり、映画デビュー作でもある『鞍馬天狗異聞 角兵衛獅子』の監督抜擢される。ただし脚本曾根ではなく山上伊太郎であったが、同作大ヒットとなり、『鞍馬天狗』は嵐の当たり役となっていく。初代杉作」役はすでに人気子役となっていた松尾であり、さらに松尾人気爆発し、『鞍馬天狗異聞 続・角兵衛獅子』では嵐の次にクレジットされた。 1928年昭和2年)、同社マキノ家人間ではないが「マキノ」姓を名乗らせた「マキノ青年派五人組売り出そうと、同グループ主演作神州天馬侠』全4篇を製作、牧野曾根監督任せるが、前半の2篇を撮ったところで、曾根東京巣鴨町現在の豊島区西巣鴨)の河合映画製作社に、俳優杉狂児鈴木澄子松尾文人とともに引き抜かれ曾根助監督鈴木桃作もそれに同行する

※この「東亜そしてマキノ」の解説は、「曾根純三」の解説の一部です。
「東亜そしてマキノ」を含む「曾根純三」の記事については、「曾根純三」の概要を参照ください。

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