本史・南洋艦隊
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清朝の近代海軍は1866年から1871年にかけて、各地の督撫によって編成された。このため各水師は皇帝に従う清朝海軍の一艦隊であると同時に、各地方の有力者の私兵(軍閥)でもあり、統一運用ができるかどうかは水師間の交渉次第という、微妙な関係の下にあった。 この中で南洋水師は1867年、両江総督の曽国藩によって設立され、上海を拠点に江蘇一帯と長江沿岸の防衛を担当した。上海には曽国藩の部下だった李鴻章が1864年に設立した江南製造局があり、福建艦隊の福州船政局と並ぶ中国の大造船所となるポテンシャルを有していた。 1880年代前半にはドイツから購入した巡洋艦「南琛」「南瑞」と国産砲艦10数隻からなる戦力を有していたが、1885年に清仏戦争が勃発。南洋水師は福建水師の救援要請に応えて出撃したものの、到着前に福建水師はフランス艦隊の攻撃で壊滅(馬江海戦)。南洋水師も迎撃されて敗走し、砲艦2隻を失った(石浦海戦)。 清仏戦争後、今度は台湾の領有と朝鮮の宗主権を巡って日本との緊張が高まり、1885年以降、海軍予算は李鴻章の北洋水師に集中投入されるようになった。江南製造局は陸軍向けの銃砲増産が優先されるようになり、造船から撤退した。このため以後は大きな戦力の変化は無くなった。 1894年の日清戦争でも、広東水師のように北洋水師に加勢はせず、台湾方面の警備を行ったのみであった。そして北洋水師が壊滅すると、無傷で残った南洋水師は、清朝が新たにドイツ・イギリスに発注した艦艇が届くまでの数年間、清朝の貴重な海上戦力になった。
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