本吉氏との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 17:03 UTC 版)
現在の岩手県南部から宮城県北部にかけての広大な所領を有した葛西氏は、奥州の戦国大名の雄として北の南部氏、西方の大崎氏、そして南方の伊達氏らと覇権を争った。しかし、戦国末期になると、領内の大身者(巨臣とも称される)である富沢氏・浜田氏・本吉氏・柏山氏ら諸氏が反乱を起し、戦国大名葛西氏の最後の当主晴信は、巨臣たちの反乱の鎮圧に忙殺された。 葛西氏に反抗を繰り返した本吉氏は、桓武平氏千葉氏の分かれだという。『千葉諸系図』によれば、千葉頼胤に六子があり、その四男正胤が本吉郡に入って本吉四郎を称したことに始まるとある。また『葛西盛衰記』には、葛西五世清信を祖にするとみえ「清信には長坂太郎、百岡二郎、江刺三郎、本吉四郎、浜田五郎、一関六郎の六子があり云々」と記されている。その他に本吉氏については、高衡が「本吉四郎」という通称であることから、高衡が祖であるという説もある。その説によれば、本吉氏が居城とした志津川城は、本吉四郎高衡の家臣志津見五郎が築いたことになっており、おそらく本吉郡は奥州(平泉)藤原氏系本吉氏が支配していたが、奥州合戦後、千葉氏系本吉氏がとって代わったものであると推測されている。
※この「本吉氏との関係」の解説は、「藤原高衡」の解説の一部です。
「本吉氏との関係」を含む「藤原高衡」の記事については、「藤原高衡」の概要を参照ください。
- 本吉氏との関係のページへのリンク