本吉荘の荘司
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 16:07 UTC 版)
父秀衡存命時においては、陸奥国桃生郡の本吉荘の荘司を務めていたとされる。この本吉荘は奥州藤原氏に限って言えば、高衡の祖父で奥州藤原氏2代当主・基衡との関わりでよく知られる。当時本吉荘は藤原摂関家領だったが「悪左府」と呼ばれた左大臣藤原頼長が、本吉荘を含む東北にあった自分の5つの荘園の年貢の大幅な増徴を命じた。これに対して基衡は5年以上に亘って頑として首を縦に振らず、結局頼長が当初の要求よりも上げ幅を大幅に小さくしたことでようやく両者の交渉が妥結し、頼長を悔しがらせている。頼長が保元の乱で敗死した後、本吉荘は当時の後白河上皇の後院領となったため、高衡は院ともつながりを持っていた可能性がある。当時、この本吉荘は金が多く産出され、奥州藤原氏の外交の一翼を担っていた。それだけではなく、気仙・磐井郡の海上の権益を制することによって、陸奥北部の海岸地域を支配下に置くという重要な側面があった。また、高衡以外の子息の名乗りは平泉内の宅の地名に由来している。高衡だけが同じ平泉内に宅を構えながらも、その名乗りは遥か遠い本吉荘からとられている。これだけでも秀衡の6人の息子の中で高衡が特別な立場にあったことを示すものであろう。
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