朝倉浅井氏の滅亡とは? わかりやすく解説

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朝倉・浅井氏の滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:41 UTC 版)

織田信長」の記事における「朝倉・浅井氏の滅亡」の解説

一乗谷城の戦い」および「小谷城の戦い」を参照 天正元年1573年8月8日浅井家武将阿閉貞征内応したので、急遽信長は3万人軍勢率いて北近江出兵山本山・月ガ瀬・焼尾の砦を降して小谷城包囲の環を縮めた10日越前から朝倉軍が救援出陣してきたが、風雨油断しているところを13日夜に信長自身奇襲し撃破した大将先を越されたと焦った諸将陳謝し敗走する朝倉軍を追撃し敦賀若狭国)を経由して越前国にまで侵攻した諸城捨てて一乗谷逃げ込んだ朝倉軍は刀根坂の戦いでも敗れ一乗谷城をも捨てて六坊に逃げたが、平泉寺僧兵一族朝倉景鏡裏切られ朝倉義景自刃した。景鏡は義景の首級持って降参した信長丹羽長秀命じて朝倉家世子・愛王丸探して殺害させ、義景の首は長谷川宗仁命じて京で獄門梟首)とされた。信長26日虎御前山に凱旋した。 翌8月27日羽柴秀吉攻撃によって小谷城京極丸が陥落し翌日浅井久政自刃した。28日から9月1日の間に本丸陥落して、浅井長政自害した信長は久政・長政親子の首も京で獄門とし、長政10歳嫡男万福丸を捜し出させ、関ヶ原で磔とした。なお、長政嫁いでいた妹・お市その子藤掛永勝によって落城前に脱出しており、信長は妹の生還喜んで、後に弟・織田信包に引き取らせた当初叔父織田信次預かったという)。 9月24日信長尾張美濃伊勢軍勢中心とした3万人軍勢率いて伊勢長島行軍した織田軍は滝川一益らの活躍半月ほどの間に長島周辺敵城次々と落としたが、長島攻略のため、大湊桑名への出船命じた従わず10月25日矢田城滝川一益入れて撤退する。しかし2年前と同様に撤退途中一揆軍による奇襲を受け、激し白兵戦で殿隊の林通政討死犠牲出して大垣城へ戻る。 11月に、足利義昭は、三好義継居城若江城離れ紀伊国へと退去した。同月佐久間信盛信長方の軍勢が、三好義継への攻撃開始した。義継の家老若江三人衆らによる裏切りで義継は11月16日自害する12月26日大和国松永久秀多聞山城明け渡し信長降伏した天正2年1574年)の正月朝倉氏攻略し織田となっていた越前国で、地侍本願寺門徒による反乱越前一向一揆)が起こり朝倉氏旧臣信長によって守護代任命されていた桂田長俊一乗谷殺された。 さらに、同月中には甲斐国武田勝頼東美濃侵攻してくる。信長はこれを迎撃しようと3の兵で出陣したが、信長援軍到着する前に東美濃明知城落城し、信長武田軍との衝突避けて岐阜撤退した明知年譜によると、山縣昌景別動隊6000人の追撃を受け、信長周囲固めた16騎のうち9騎が打ち取られ、7騎が逃げ出すなど、信長瀬戸際まで追い詰められる場面もあったという。 また、信長正親町天皇に対して蘭奢待切り取り」を奏請し、天皇はこれを勅命をもって了承した

※この「朝倉・浅井氏の滅亡」の解説は、「織田信長」の解説の一部です。
「朝倉・浅井氏の滅亡」を含む「織田信長」の記事については、「織田信長」の概要を参照ください。

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