望星学塾までの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:19 UTC 版)
新しい通信技術の開発に従事するなかで「人生いかに生きるべきか」について思い悩み、そこにおいて松前重義は内村鑑三の思想と人類の救済を説く情熱的な訴えに深く感銘した。 1925年には内村鑑三の集会に参加をした。また、そのなかでプロシアとの戦争に敗れ、疲弊した国を教育によって再興させたデンマークの歩みを知る。特に、精神的支柱となったニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルントヴィが提唱する国民高等学校(フォルクホイスコーレ、国民大学)の姿を知り、そこに教育の理想の姿を見出したのである。「生きた言葉による学校」、「民衆のための大学」といわれた国民高等学校の教育は教師と学生が生活をともにし自由に社会を論じ哲学を語り合う活気に満ちた学校であった。 1934年に松前重義はその教育事情を視察するため、デンマークを訪問した。そこで得たものは、学校とは「歴史観、人生観、使命感を把握せしめ、以て個々の完成に努力することにある」べきだということであった。そして、この教育こそが豊かな酪農王国デンマークを築く原動力になっていることを目の当たりにしたのであった。この体験を通して松前重義は「国づくりの基本は教育にあり、教育を基盤として平和国家日本を築こう」と決意をしたのである。 松前重義はかねてから妻の信子や、松前重義の理想に共鳴する友人の篠原登、大久保真太郎などの数人の同志とともに、教育研究会という小さな集まりを持ち、シュバイツァーやペスタロッチなどの人生・思想を研究していた。そして、無装荷ケーブル通信方式の発明により、電気学会から「浅野博士奨学祝金」を受けると、これを基金の一部として念願の教育事業を開始する。1936年、東京都武蔵野に望星学塾を開設した。 ここでは、デンマークの国民高等学校の教育を範としながら、対話を重視し、ものの見方・考え方を養い、身体を鍛え、人生に情熱と生き甲斐を与える教育をめざすもので、聖書の研究を中心として日本や世界の将来を論じ合う、規模は小さくとも理想は大きく、活気のある学習の場であった。この塾が東海大学の母体となっている。
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