朋党政治の展開
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政権を担うことになった士林派であったが、1575年に金孝元を中心とする東人と沈義謙を中心とする西人とに分裂後、派閥間で激しく対立する朋党政治を繰り広げていくことになる。こうなった原因は、士林派の政界掌握で官職にのぼる資格者が多くなったものの官職の数は限定されており、必然的に官職を巡って党派を分かれての争いを招くようになったからであった。 1591年には東人が政権を握るが、東人はさらに李山海(朝鮮語版)を中心とする強硬派の北人と禹性伝(朝鮮語版)を中心とする穏健派の南人に分裂した。当初は宰相柳成龍を擁する南人が優勢であったが、1602年に文禄の役で和議を申し出た柳成龍が失脚し、柳成龍の配下の武将李舜臣も排除されて元均が後任になった。 政権の座についた北人は、光海君を推す老壮を中心とする大北と永昌大君を推す少壮を中心とする小北に分裂し、1608年に大北が光海君を擁立して政権を握ると、永昌大君や綾昌大君(朝鮮語版)を謀殺し、小北は少数党派として存続した。大北はさらに「骨北」「肉北」「中北」の3つの派閥に分かれた。 大北の党争は15年間続き、南人と西人は協力してこれに対抗した。1623年、西人と仁祖のクーデター(仁祖反正(朝鮮語版))により大北が失脚すると、丁卯胡乱・丙子の乱という国難の時代には西人が主導権を握りつつ南人と調和した。しかし、西人の勢力が強くなると1659年には南人を排除し始め、その反動で1674年の甲寅礼訟で西人は粛清され、南人が政権を握った。 1680年、南人の専横に歯止めをかけたい粛宗は南人を大量に追放し(庚申換局)、西人は政局に復帰する。しかしその過程で西人は、粛宗の外戚に対し批判的な少論派と、妥協的な老論派に分裂した。粛宗の時代には南人と西人の勢力を交互に入れ替える換局政治が行われた。1694年には少論が主導権を握り、1701年以降は老論と少論主導による政治が行われる。この期間は南人は少数勢力になって西人の少論と老論が交互に政局を担っていた。 1729年、英祖は少論・老論・南人・小北を均等に採用する蕩平政治(朝鮮語版)を行って党争を押さえ込もうとしたが、英祖の晩年には1762年の荘献世子を餓死に追い込んだ壬午事件(壬午士禍、壬午の獄)を巡って、荘献世子の排斥に肯定的な老論を中心とした僻派(朝鮮語版)と、排斥に反対を唱える南人・少論を中心にした時派(朝鮮語版)に大きく分裂、各党派内でも大きな分裂が生じた。 1776年、荘献世子の子である正祖が王位に立つと、これらの勢力の対立を縫って正祖擁立に功績の有った洪国栄による勢道政治が始まり、士林勢力は大きく勢力を削がれた。しかし1780年、洪国栄は王妃暗殺未遂事件によって追放され、政権は士林派の手に戻った。西洋から伝来したカトリックの受容を巡って、僻派を中心としたカトリック排斥派の功西派と、時派を中心とした受容派の信西派の間で対立が生じた。この対立は結果的に排斥派の勝利に終わり、1791年には最初のキリスト教の弾圧(辛亥邪獄(朝鮮語版))が行われて、信西派の多い南人は大きく勢力を落とした。 1800年、正祖が亡くなって純祖が即位すると、貞純王后の垂簾聴政が敷かれ僻派が実権を握り、キリスト教の大弾圧(辛酉教獄(朝鮮語版))が行われ、信西派の多い時派の南人・少論は壊滅状態になり、老論僻派のみが残る状態になった。1803年12月に垂簾聴政を取りやめになると、1804年、生き残った時派勢力の一人でもあった外戚の金祖淳(朝鮮語版)が老論勢力を追放し、1805年に貞純王后が逝去すると、自らの本貫の安東金氏のみを登用した勢道政治を始めた。これ以降は60数年に渡り特定の一族が政治を独占する時代が続き、士林勢力は消滅する。
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