書画・彫刻など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 06:09 UTC 版)
「妙寿寺 (世田谷区)」の記事における「書画・彫刻など」の解説
妙寿寺には、関東大震災を免れて伝えられてきたものの他に、移転後に所蔵された文化財もある。寺宝としては、梵鐘の他に江戸時代に作られた日蓮聖人坐像、1276年(建治2年)日蓮真筆という十界曼荼羅、1668年(寛文8年)の日崇直筆『法華経本門八品写経』、1669年(寛文9年)の日崇直筆十界曼荼羅などを蔵する。 日蓮聖人坐像 江戸時代の作で像の高さは46.5センチメートル、寄木造、玉眼嵌入、漆塗りである。長絹をまとい左肩から袈裟をかけ、左手には檜扇、右手には経巻をとった姿である。結跏趺坐した姿で表されているが、左右どちらの足が外になっているかは衣に覆われた状態のため不明である。両手及びその持物、頭部の墨彩は後補である。この坐像は関東大震災時に焼失を免れた寺宝で、ともに移転してきたものである。この像は、1980年(昭和55年)2月7日に世田谷区が実施した社寺調査の彫刻の部で調査実施の対象となった。 法華経本門八品写経 紙本墨書で縦24センチメートル、横1531センチメートルある。妙寿寺の開山日崇直筆のもので、法華宗では法華経28品のうち従地涌出品第十五から嘱累品第二十二の8品を「本門八品」と呼び、法華経の中で最も大切な経文であるために本地本門として尊んでいる。 十界曼荼羅 紺紙金泥で縦71センチメートル、横48センチメートルある。こちらも妙寿寺の開山日崇が、宗祖日蓮の十界曼荼羅を書写したものである。十界曼荼羅は法華宗の本尊であり、一切の衆生が法華経の題目の功徳によって成仏することを表したものとされる。 日蓮大聖人旭ケ森図 伊東深水筆。紙本著色、縦70センチメートル、横50センチメートル。この絵のモデルは、妙寿寺21世三吉日照(1891年 - 1955年)である。日照は10歳のときに妙寿寺18世日誠の門に入って出家得度し、21歳のときに妙寿寺21世となった。45年間にわたって妙寿寺の住職を務め、関東大震災や第2次世界大戦時の「曼荼羅不敬事件」などの苦難を乗り越えて布教と教化に尽力した。日照のもとにはその人徳に惹かれた多くの人々が集まり、この絵の作者伊東深水もその1人であった。日照は日蓮650年忌にあたる1952年(昭和27年)、伊東に依頼してこの絵を描かせた。なお、日照の7回忌にはこの絵のデッサン(複製)が信徒に配られている。 琢玉 吉田芳明作。木彫、高さ37センチメートル、前面55センチメートル、側面25センチメートル。作者の吉田芳明(1875年 - 1943年)も伊東深水と同じく、三吉日照の友人の1人であった。1927年(昭和2年)に作られたこの像は餓鬼が玉を磨く姿を模ったもので、玉を磨くことが転じて「己を磨くこと」の謂いとされる。
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