日記の記述と結論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 06:03 UTC 版)
「レディ・ビー・グッド (航空機)」の記事における「日記の記述と結論」の解説
パラシュートで砂漠に着地後に9名中8名の搭乗員は手持ちのリボルバー拳銃や信号拳銃を空中に向け発砲して何とか集合できたが、9人目の搭乗員である爆撃手のジョン・ウォラフカ少尉を発見することはできなかった。彼らは知らなかったがウォラフカは装着していたパラシュートが十分に開傘せずに着地の衝撃により死亡していたらしい:p.38。地中海沿岸にかなり近い位置に居ると考えた生き残った8名は、捜索隊が跡を辿れるように靴下、パラシュートの切れ端、メイ・ウエスト、その他諸々を道々に残していった。僅か一つの容器に入った水を分け合いながら灼熱の中を8日間で100マイル (160 km)以上歩いて息絶えた。搭乗員5名の遺体の一団は機体の墜落現場から約80マイル (130 km)離れた地点で発見された。3名(ガイ・シェリー、“リップ”・リップスリンガー、ヴァーノン・ムーア)は、その他5名を残して救援を探すために出発したが、シェリーとリップスリンガーは各々更に32 km (20 mi)と43 km (27 mi)北へ行った地点で発見された。ムーアの遺体は発見されなかったが、1953年にイギリスの砂漠哨戒隊によりムーアの遺体が発見され、戦争で行方不明になった航空機搭乗員と気付かずに埋葬された可能性がある。 副操縦士のロバート・トナーのポケットから発見された日記には北への徒歩行軍の苦難の模様が記され、搭乗員が機体から脱出した時には陸地の上空にいることに気付いていなかったことを示していた。暗闇の中で何もない砂漠の地表を空から一瞥した限りではそれが大海原に見えたかもしれないという推測が成り立った。搭乗員は自分たちが400マイル (640 km)以上も内陸に入っていることには気付いていなかったらしい:p.31。 自分たちがどれだけ内陸部にいるかということを知っていて、脱出した地域の地図を持っていれば搭乗員が生き延びられたとも信じられている。北への歩行距離は南の方角にあったWadi Zighenのオアシスへたどり着くのに少し足らない程度の距離であったが、搭乗員はこのことに気付いていなかった。その上、もし南へ向かっていたならば高い確率で潤沢とはいえないまでも水と食料を搭載したままの「レディ・ビー・グッド」の残骸を発見したであろうし、作動する通信機を使って救援を要請することもできたであろう:p.38。 この事故に関する軍没者処理業務の報告書によると: 当該航空機は150度コースでベニナ飛行場へ向かって飛行していた。ベニナのHF/DF局からの方向表示を無線要請し、ベニナから330度の表示を受信した。しかし440マイル内陸へ向けて飛行することになったパイロットの行動は、おそらく航法士が「コース上にある」が基地を通過した先のベニナの南側の地点で自機の背後にある無線方位ループアンテナからの方向表示を逆の意味で理解したということを示していた。操縦士は自機がまだ地中海上空にいてベニナへ向けて帰還していると思いつつ飛行していた。
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