日本国体学講座
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文部省では国体明徴に関して専門学術研究を構想する。1936年に検討が始まり、1937年度予算に東京文理科大学・広島文理科大学・東京帝国大学・京都帝国大学への日本国体論講座の新設が盛り込まれる。当初計画では9月に開講する予定であったが、文部省が大学に押し付けるものであり各大学が自発に設置するものでなかったため、予定より大幅に遅れる。 まず1937年11月に東京文理科大学と広島文理科大学に日本国体論講座が新設される。新設の理由は「我が国民の歴史および精神生活の史的発展における最も顕著なる事象を跡づけるとともに、また我が国の政治・経済・宗教・道徳・教育・学問・芸術その他文化諸相を通じて把握さるる特性を明にして、我が国体が我が国民生活の生々不断なる創造的発展を展示し、常に国民の具体的生活と結合し、自覚ある国民の活動に帰一統合を与うるところの国民存在の範疇たる国体を理論的に把握し学的の基礎づけ」、「一切教学および実践的生活を媒介として国体の具体的発展に産ずるの自覚および覚悟を得しめ」ようとするためとされる。東京文理科大学では「国体論」を全学科で必修科目にするが、広島文理科大学では「国体学教室」を設け、これを専門とする学生を養成することになる。この国体学教室は西晋一郎の国体論を中核として誕生したといわれる。西晋一郎は国民精神文化研究所所員を兼ね、文部省の国体明徴講座の講師の常連でもあった。 翌月、京都帝国大学に日本精神史講座が新設される。講座名称がもともと「日本国体学講座」であったのを「日本精神史講座」に改めたときは、設置理由として「本学(京都帝国大学)文学部においては我が国体の学術的考究に関係する講座として、つとに国史学二講座・国語学二講座あり、我が国体の由来する所を究め我が国民性の特質を明かにするに力を用うること久しといえども、しかもこれら講座において研究する所を綜合統一し国史を貫く固有の精神を歴史的に研究する方面に至っては、なお遺憾の点、少しとせず、これ本講座を設置せんとする所以なり」としていた。これは文部省に修正され、官制改正理由で「本講座は国体に基づく我が国の思想、文化ならび我が国民の精神生活の歴史的性格」を明らかにし「我が国体の世界史的意義および使命を闡明し、東西文化の融合発展に努力すべき国民の自覚および覚悟を固めしめんとするもの」と改められる。国体を強調する点に文部省らしい修辞が見られる。日本精神史講座の担当は、書類上、国史学第一講座の西田直二郎が兼任し、助教授に講師高山岩男を助教授に任命する予定とされる。西田は国民精神文化研究所の所員を兼ねていたが、京都帝国大学の日本精神史講座を休講にすることが多かったといわれる。 そのまた翌月(1938年1月)、東京帝国大学に日本思想史講座が新設されるが、設置にあたって事態が紛糾する。前年11月、日本国体学講座を文学部に設置することが文部省から一方的に通知される。文学部では不満が強い中で評議会で国史講座を第1候補、日本思想史講座を第2候補と決める。しかし総長が文相らと会談して日本思想史講座に決めてしまったことから、評議会で不満が噴出する。文部省による官制改正理由は京都帝国大学のときと同文である。日本思想史講座の教授には国史学第二講座の平泉澄が就く。
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