日本中国の前近代の銀貨とは? わかりやすく解説

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日本・中国の前近代の銀貨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 15:52 UTC 版)

銀貨」の記事における「日本・中国の前近代の銀貨」の解説

円形方孔の銀製銭貨銀銭というが、日本では飛鳥時代無文銀銭呼ばれる貨幣の形態をした銀地金貨幣代わりに流通したと言われており、日本最古通貨と言われている「和同開珎」も銅銭よりも先に銀銭発行されている。これ以降250年の間に、律令国家は、12種類銅銭2種銀銭和同開珎銀銭大平元宝)と1種金銭開基勝宝)を発行したまた、文献史料記載はない銀銭片も先の金銭と共につかっている。 『日本書紀』には683年天武12年)の詔として「今より以後、必ず銅銭用いよ銀銭用いことなかれ」と記録されており、ここでいう銅銭とは富本銭指しているという説がある。また711年和銅4年)には和同開珎のうち銀銭廃止され銅銭のみが通用力を持つとされた。しかしこの禁令余り効力を持たなかったようで、721年養老5年)には銀銭1枚銅銭25、銀1両が銅銭100枚相当するとの詔が発布されている。 銀銭禁止理由としては、銅銭比べて1枚当たりの発行利益大きいために私鋳銭横行したことや、政府大陸との取引のために用いられる銀を回収したかったこと、当時対馬以外では銀が産出しなかったため、そもそも銀の絶対量少なく少額決済には不向きであったことなどが挙げられる従来から無文銀銭など、秤量貨幣として用いられていた銀と異なり銅銭はその価値基準定め経験乏しく価額設定政府恣意よるものとなった711年和銅4年)には銅銭1文で穀6升とされたが、729年天平1年)米1石が銀1両、銭100となっており、銅銭価値は1/3に下落している。760年天平宝字4年)には大平元宝という銀銭発行されといわれるが、これは流通目的ではなく銅銭価値上げるためのものといわれ、さらに遺物現存しない。 江戸時代丁銀豆板銀といった秤量銀貨が、主に西日本から北陸東北流通した。これは戦国時代から江戸時代初期掛けて灰吹銀極印打った領国貨幣商取引盛んに使用されたことの名残である。だが、南鐐二朱銀発行以後定位貨幣である額面表記銀貨への移行進み江戸時代後期には、五匁銀一分銀一朱銀など、額面表記銀貨発行された。秤量銀貨丁銀豆板銀、および定量銀貨五匁銀は「銀~匁」といった銀目建の銀貨であるのに対し南鐐二朱銀一分銀一朱銀といった銀貨は、銀製金貨代用貨幣であり、金貨単位用いられたものである。これらの江戸時代銀貨銀銭発達したものではなく、全く別系統のものである中国では明の洪武帝治世下で金銀貨幣使用禁止され1375年には通貨大明宝鈔という紙幣切り替えられ額面1貫文が銀1両=米1石に相当するとされたが、永楽帝の頃には戦費捻出のために濫発され大きく価値下落させた。明代中期以降秤量貨幣としての銀(馬蹄銀)が主要な通貨となっていく。

※この「日本・中国の前近代の銀貨」の解説は、「銀貨」の解説の一部です。
「日本・中国の前近代の銀貨」を含む「銀貨」の記事については、「銀貨」の概要を参照ください。

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