日本・中国の前近代の銀貨
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円形方孔の銀製銭貨を銀銭というが、日本では、飛鳥時代に無文銀銭と呼ばれる貨幣の形態をした銀地金が貨幣の代わりに流通したと言われており、日本最古の通貨と言われている「和同開珎」も銅銭よりも先に銀銭が発行されている。これ以降250年の間に、律令国家は、12種類の銅銭と2種の銀銭(和同開珎銀銭・大平元宝)と1種の金銭(開基勝宝)を発行した。また、文献史料に記載はない銀銭片も先の金銭と共に見つかっている。 『日本書紀』には683年(天武12年)の詔として「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」と記録されており、ここでいう銅銭とは富本銭を指しているという説がある。また711年(和銅4年)には和同開珎のうち銀銭が廃止され、銅銭のみが通用力を持つとされた。しかしこの禁令は余り効力を持たなかったようで、721年(養老5年)には銀銭1枚が銅銭25枚、銀1両が銅銭100枚に相当するとの詔が発布されている。 銀銭の禁止理由としては、銅銭に比べて1枚当たりの発行利益が大きいために私鋳銭が横行したことや、政府が大陸との取引のために用いられる銀を回収したかったこと、当時は対馬以外では銀が産出しなかったため、そもそも銀の絶対量が少なく少額決済には不向きであったことなどが挙げられる。 従来から無文銀銭など、秤量貨幣として用いられていた銀と異なり、銅銭はその価値基準を定める経験に乏しく、価額設定は政府の恣意によるものとなった。711年(和銅4年)には銅銭1文で穀6升とされたが、729年(天平1年)米1石が銀1両、銭100文となっており、銅銭の価値は1/3に下落している。760年(天平宝字4年)には大平元宝という銀銭が発行されたといわれるが、これは流通目的ではなく、銅銭の価値を上げるためのものといわれ、さらに遺物も現存しない。 江戸時代に丁銀、豆板銀といった秤量銀貨が、主に西日本から北陸、東北で流通した。これは戦国時代から江戸時代初期に掛けて灰吹銀に極印を打った領国貨幣が商取引に盛んに使用されたことの名残である。だが、南鐐二朱銀の発行以後、定位貨幣である額面表記銀貨への移行が進み、江戸時代後期には、五匁銀、一分銀、一朱銀など、額面表記銀貨も発行された。秤量銀貨の丁銀、豆板銀、および定量銀貨の五匁銀は「銀~匁」といった銀目建の銀貨であるのに対し、南鐐二朱銀、一分銀、一朱銀といった銀貨は、銀製の金貨代用貨幣であり、金貨の単位で用いられたものである。これらの江戸時代の銀貨は銀銭の発達したものではなく、全く別系統のものである。 中国では明の洪武帝治世下で金銀貨幣の使用が禁止され、1375年には通貨は大明宝鈔という紙幣に切り替えられ、額面1貫文が銀1両=米1石に相当するとされたが、永楽帝の頃には戦費捻出のために濫発され大きく価値を下落させた。明代中期以降は秤量貨幣としての銀(馬蹄銀)が主要な通貨となっていく。
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