日本におけるDTP化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 01:17 UTC 版)
アメリカでは瞬く間にDTP革命が進行し、活版の印刷所を駆逐していった[要出典]。Mac以外のパソコンでもDTPソフトが盛んにリリースされ、例えば有名ソフトとしては、1986年にはMS-DOSを搭載したPCでDTPを可能にするGEMベースのVentura Publisher(後のCorel Ventura、現在のCorelDRAW)なども発売されているが、1987年には大型カラーマルチモニタディスプレイやSCSIストレージインターフェイスをサポートするなどDTP向けの拡張機能を搭載したMacintosh IIが発売され、DTP業界におけるMacの優位性が確立した。DTPでは素人でもマウス一つでフォントが使い放題であるため、最初期のDTPではフォントを過剰に使いまくる「ランサムノートエフェクト」と呼ばれるデザイン(身代金要求書で筆跡鑑定から身元がばれるのを避けるため、いろんな新聞やチラシの文字を切り貼りして作成したようなデザイン)が悪評を買ったが、DTP業界が発展するにつれて「アートディレクション」や「グラフィックデザイン」などの副次的な分野も発達し、DTPソフトの進歩とともに、素人が作る民生の出版物でも整った原稿が印刷できるようになっていった。 日本では事情は異なった。ASCIIコードだけで書籍組版ができる1バイト言語の英語と違い、日本語は多数の漢字を抱える2バイト言語(カナも2バイト)であったことが理由として挙げられる[要出典]。当時のデスクトップマシンの処理能力、記憶容量では、多数の2バイトフォントを搭載して自由自在に組版する、というわけにはいかなかった上に、そもそも搭載して利用できるフォント自体が限られていた。 多数の漢字を抱える日本語では、フォント1書体あたりのデータ量が多いことなどもあり、DTP黎明期においてはかつての活字や初期の写真植字が事実上そうであったのと同様に、明朝体とゴシック体、それぞれ1書体しか使えなかった。また、その価格も極めて高額であった。しかし一方で、文字通り、机上で実際の仕上がりに近いものが確認できることからグラフィックデザイナーなどの間で支持され、地歩を固めていった。 この当時の2書体はモリサワのリュウミンL-KLと中ゴシックBBBで、これが同社の投入した、そして日本で最初の和文PostScriptフォントであった。スタートダッシュの早さ、漢字Talk 7.1へのバンドル等から、同社は和文フォントのトップベンダーとなっていく。
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