日本での流布
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/20 05:51 UTC 版)
「サミュエル・ウルマン」の記事における「日本での流布」の解説
日本では岡田義夫(1891年 - 1968年)の訳が広まっている。岡田は羊毛工業界に足跡を残し、山形大学や群馬大学でも教鞭を取った人物であるが、『リーダーズ・ダイジェスト』に掲載された "Youth" に感銘して翻訳した。岡田の翻訳は私的なもので、自らの座右の銘として自室の壁に貼っただけであるが、友人(東京高等工業学校での同窓生)の森平三郎(1891年 - 1960年。1945年当時は米沢専門学校校長、のち山形大学学長)が岡田を訪ねた際にこれを見て話を聞き、岡田の訳詩を書き写した。 その後退官して群馬に帰郷した森は、1958年に群馬県桐生市の地方紙『東毛毎夕新聞』でコラムを掲載した際、友人岡田の訳としてこの詩を紹介し、これによって岡田訳が世に出ることとなった。その後、詩は広がったが、作者(原作者・翻訳者)の情報は不明になったようである。1965年、この詩に感銘を受けた宮澤次郎(凸版印刷常務、トッパン・ムーア社長)はこの詩の作者を追求し、原文を入手して原作者がサミュエル・ウルマンであることを明らかにした。翻訳者はその後も長らく不明のままであり(翻訳者が松永安左エ門に帰されることもある)、宮澤が岡田義夫にたどりついたのは1985年のことであった。 この詩は多くの企業人によって愛誦され、普及された。1982年に宇野収(東洋紡績社長)が日本経済新聞で「青春の詩」の一節を紹介、1986年には作山宗久との共著で『「青春」という名の詩 幻の詩人サムエル・ウルマン』を刊行し、ウルマンの名を知らしめた。また、翻訳者岡田を明らかにした宮澤は1985年に「青春の会」を組織、「青春の詩」の普及に努めた。 「青春の会」は2000年、前年の宮澤の死を受けて解散した。後継組織として「新青春の会」が組織されている。 日本においては、以下の場所に「青春の詩」の詩碑がある。 山形大学米沢キャンパス(山形県米沢市) - 岡田義夫と森平三郎が教鞭をとった。1990年、同窓会組織「友諒会」により建立された。 DNタワー21(旧第一生命館)マッカーサー記念室(東京都千代田区) - 1995年制作 前橋文学館前(群馬県前橋市) - 前橋市はバーミングハム市と友好都市。1998年建立 群馬大学工学部校庭(群馬県桐生市) - 岡田義夫が教鞭をとった。同窓会組織「群馬大学工業会」により1990年建立。 蕨城址公園(埼玉県蕨市) -「青春の碑」。 蕨市は岡田義夫の出身地。1993年建立。隣に「成年式発祥の地」碑が立つ。 岡田義夫訳については、「新青春の会」が著作権の管理・保全に当たっている。『リーダーズ・ダイジェスト』版を基にした別バージョンも流布している。ウルマンの原詩をもとにした訳は作山宗久などが挙げられる。新井満は「自由訳」として翻案を行っている。
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