日吉ヶ丘・明石墳墓群とは? わかりやすく解説

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日吉ヶ丘・明石墳墓群

名称: 日吉ヶ丘・明石墳墓群
ふりがな ひよしがおか・あけしふんぼぐん
種別 史跡
種別2:
都道府県 京都府
市区町村 与謝郡加悦町
管理団体
指定年月日 2005.07.14(平成17.07.14)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 日吉ヶ丘・明石墳墓群は、京都府北部丹後半島の南に位置し、北を除く三方を山に囲まれ加悦谷呼ばれる盆地立地する弥生時代から古墳時代にかけての墳墓群である。周辺には史跡蛭子山古墳史跡作山古墳をはじめ、同時期の墳墓及び古墳数多く所在している。平成11年から加悦町教育委員会が町住宅建設先立ち日吉ヶ丘地区事前調査実施したところ、弥生時代中期大規模な方形貼石墓検出した加悦町ではこの遺構保存を図ることを決定し平成14年から周辺墳墓群の内容確認するための発掘調査進めてきた。
日吉ヶ丘地区方形貼石墓は、加悦谷流れ野田川東岸にのびる標高20m前後丘陵末端部に所在する規模長辺約32m、短辺約20m、残存高は周溝の底から2m余りで、墳丘斜面上半には平らな石を貼り付けていた。上面は削平されているが、一部盛土存在確認されている。方形貼石墓は、現状では石見出雲地域丹後地域発掘されているが、これまで発見された中では最大規模である。埋葬施設としては墳丘中央からやや南寄りのところで組合せ木棺1基が確認され頭部推定される場所では670点を越え管玉赤色顔料検出した時期出土土器から見て弥生時代中期中頃である。
明石地区日吉ヶ丘地区背後にある標高40から96mの丘陵上にあり、弥生時代後期末から古墳時代前期前半までの墳墓28基を確認している。近接する別の丘陵にも同様の墳墓存在し全体として大規模な墳墓群が形成されていた。丹後地域では弥生時代後期になると丘陵上に墳墓築かれるうになるが、明石地区では後期末に一辺10m前後台状墓が築かれた。これらは丘陵上に平坦面を削り出し遺骸埋葬後は掘削により出てきた土で覆ったものであり、稜線上で連続して営まれたことから、外見上は階段状を呈する庄内期になると台状墓に加え盛土を伴う一辺20m程度方形楕円形の墳丘をもつ墓や区画施設もたない土坑墓群が出現しこのような在り方次の布留期にも続く。出土遺物としては、葬送儀礼の際に用いられ土器土製模造品がある。土製模造品関東以西前方後円墳認められるが、本例は最古事例として注目される
日吉ヶ丘地区方形貼石墓は、これまで発見され同種の墓では最大規模であり、この地域有力な勢力出現していたことを示唆するまた、明石地区において弥生時代後期末に出現した台状墓は、丹後地域弥生時代後期特徴づける墳墓形式である。そして、庄内期に墳墓構成格差認められるようになり、布留期においても同じ在り方続いた古墳時代入っても、弥生時代以来在地墓制引き継がれていたことを示す例として興味深い。日吉ヶ丘・明石墳墓群は丹後地域における弥生時代中期から古墳時代前期にかけての典型的な墳墓群であり、当該地域墳墓群の構造変遷さらにはその社会考え上で重要である。
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日吉ヶ丘・明石墳墓群

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日吉ヶ丘・
明石墳墓群
位置

座標: 北緯35度30分20秒 東経135度06分37秒 / 北緯35.50556度 東経135.11028度 / 35.50556; 135.11028日吉ヶ丘・明石墳墓群(ひよしがおか・あけしふんぼぐん)は、京都府与謝郡与謝野町明石にある古墳群。2005年7月14日、国史跡に指定された。

概要

京都府北部、丹後半島の南に位置し、北を除く三方を山に囲まれた加悦谷と呼ばれる盆地に立地する、弥生時代から古墳時代にかけての墳墓群である。周辺には史跡蛭子山古墳、史跡作山古墳をはじめ、同時期の墳墓及び古墳が数多く所在している。平成11年から加悦町教育委員会が町営住宅建設に先立ち日吉ヶ丘地区の事前調査を実施したところ、弥生時代中期の大規模な方形貼石墓を検出した。加悦町ではこの遺構の保存を図ることを決定し、平成14年から周辺の墳墓群の内容を確認するための発掘調査を進めてきた[1]

日吉ヶ丘地区の方形貼石墓は、加悦谷を流れる野田川東岸にのびる標高20m前後の丘陵末端部に所在する。規模は長辺約32m、短辺約20m、残存高は周溝の底から2m余りで、墳丘斜面上半には平らな石を貼り付けていた。上面は削平されているが、一部で盛土の存在が確認されている。方形貼石墓は、現状では石見・出雲地域と丹後地域で発掘されているが、これまで発見された中では最大規模である。埋葬施設としては墳丘中央からやや南寄りのところで組合せ式木棺1基が確認され、頭部と推定される場所では670点を越える管玉と赤色顔料を検出した。時期は出土土器から見て弥生時代中期中頃である[1]

明石地区は日吉ヶ丘地区の背後にある標高40から96mの丘陵上にあり、弥生時代後期末から古墳時代前期前半までの墳墓28基が確認されている。近接する別の丘陵にも同様の墳墓が存在し、全体としては大規模な墳墓群が形成されていた[1]。丹後地域では弥生時代後期になると丘陵上に墳墓が築かれるようになるが、明石地区では後期末に一辺10m前後の台状墓が築かれた。これらは丘陵上に平坦面を削り出し、遺骸の埋葬後は掘削により出てきた土で覆ったものであり、稜線上で連続して営まれたことから、外見上は階段状を呈する。庄内式期になると台状墓に加え、盛土を伴う一辺20m程度の方形・楕円形の墳丘をもつ墓や区画施設をもたない土坑墓群が出現し、このような在り方は次の布留式期にも続く。出土遺物としては、葬送儀礼の際に用いられた土器や土製模造品がある。土製模造品は関東以西の前方後円墳に認められるが、本例は最古の事例として注目される[1]

日吉ヶ丘地区の方形貼石墓は、これまで発見された同種の墓では最大規模であり、この地域に有力な勢力が出現していたことを示唆する。また、明石地区において弥生時代後期末に出現した台状墓は、丹後地域の弥生時代後期を特徴づける墳墓形式である。そして、庄内式期には墳墓の構成に格差が認められるようになり、布留式期においても同じ在り方が続いた。古墳時代に入っても、弥生時代以来の在地の墓制が引き継がれていたことを示す例として興味深い。日吉ヶ丘・明石墳墓群は丹後地域における弥生時代中期から古墳時代前期にかけての典型的な墳墓群であり、当該地域の墳墓群の構造や変遷、さらにはその社会を考える上で重要である[1]

脚注

  1. ^ a b c d e 国指定文化財等データベース”. kunishitei.bunka.go.jp. 文化庁. 2021年2月7日閲覧。


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