既存事業者の解体へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 00:18 UTC 版)
1939年4月に日本発送電が発足し電力国家管理が開始されたが、開業早々異常渇水が発生し、これに石炭不足・炭質低下が重なって水力発電・火力発電ともに機能不全に陥って8月より日本発送電から配電事業者への供給割当の制限が始まった。10月20日には電力消費そのものを国家総動員法に基づいて制限する電力調整令が施行され、低廉豊富な電力供給を掲げて成立した電力国家管理体制の公約が崩れた。また日本発送電自体の経営も不振であり、1939年度下期には赤字決算となり政府補給金で政府保証の4パーセント配当を捻出するという状態であった。 こうした問題は電力国家管理体制の再検討を求める声に繋がるが、日中戦争が長期化し総力戦に備えた体制変革が各方面で進む中では国家管理を見直すのではなくより強化することで事態打開を図る動きが主流であった。1940年(昭和15年)7月に発足した第2次近衛内閣で逓信大臣となった関西財界出身の村田省蔵は就任早々電力国家管理の強化に動き出す。村田の下での第2次電力国家管理は、既設水力発電設備も日本発送電へと帰属させるという発送電管理の強化と、既存配電事業者を全て解体して地区ごとに配電特殊会社を新設し日本発送電との連携を強化するという配電管理の実施を両輪とするものであった。同年9月27日、上記を盛り込んだ「電力国策要綱」の閣議決定まで進んだ。 閣議決定後、第2次電力国家管理実施に向けた準備が進められるが、電力業界側では東邦電力会長松永安左エ門や東信電気専務浦山助太郎から強硬な反対意見が唱えられた。しかし業界団体の電気協会内部では松永らの絶対反対の意見が主流というわけではなく、1940年12月に電気協会は反対決議をなすが、日本発送電の整備が先決問題、官営の特殊会社による配電統制には反対する、という条件を付したものであった。一方、逓信省では閣議決定に基づき日本発送電株式会社法中改正法や「配電管理法」「配電株式会社法」などの法案を準備したが、翌1941年(昭和16年)1月22日、衆議院本会議にて「戦時体制強化に関する決議」が行われ、それを受けて政府が議事の迅速化のため審議の長期化が予想される法案の提出を控える方針を決定したことから、会社法中改正法以外は撤回、その他は個別の法案ではなく国家総動員法の適用で実施されることとなった。 国家総動員法適用への路線変更を受けて、2日後の1月24日、電気協会では政府の法案提出見合わせに伴い協会においても反対姿勢を取り止め、官民協力して事態の打開に努める旨を決定した。その後も反対意見はあったが、3月7日、電気庁長官から「一部少数事業者」が国策に反対し続けているようにみえるのは遺憾であるので善処するように、という要望が協会に出されると、協会側は誤解を招く行為は極力避ける旨を返答した。こうして業界内での反対運動も下火となっていった。
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