新約聖書時代
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ヘロデの死後は彼の子孫のユダヤ地方の統治者もしくはローマから送られたユダヤ総督が大祭司を任命するようになり、大祭司の罷免と任命が頻繁に行われたためアリストブロスの溺死(西暦紀元前35年ごろ)からユダヤ戦争終結(西暦69年)までに28人も大祭司がいた。 これに加えてファリサイ主義(大祭司は基本的にサドカイ派だった)とラビ教育制が力を強めていたが、それでもエルサレム神殿の崩壊の時まで大祭司階級はその権威を保持してサンヘドリンの議長を務め(サンヘドリンがローマ帝国の総督と交渉する代表機関でもあった)、国民の民事を統括しており、世襲ではないが原則誰でも成れるものではなく少数の特権的家族から選ばれ(後述の「歴代大祭司」の末尾を参照)、君主制王朝ではないもののローマ人やヘロデ一門の統治下で影響力を持った貴族階級としての集団であった。 大祭司の頻繁交代で常にかなりの人数の退職者がいたが、彼らも重要で影響力の大きい地位を占め、『ルカの福音書』3:2でアンナス(アナノスとも)がカヤパと並んで「大祭司」と呼ばれていたり、ヨセフスの書にもアナノスの子ヨナタンが退職してから15年ほどたっているのにシリア総督から頼まれてローマまで使者として向かったり、アナニアが大祭司をやめてからもエルサレムで采配を振るい、ユダヤ戦争時も初期の頃は大祭司アナノスの子アナノスとガマリエルの子イエスが反乱軍のリーダーをしていたなどといった記述がある。 またヨセフスの『ユダヤ古代誌』第XX巻6章8節・7章2節によると、ユダヤ戦争の十年ほど前(アグリッパ2世によるイシュマエル任命の頃(紀元56年- 62年))から大祭司と一般祭司(ヨセフス自身もこうした祭司であった)やエルサレムの民族指導者たちの間に確執が生まれ、お互い向こう見ずな人々をあおって騒ぎが起きたが、原因の一つが大祭司たちが一般祭司たちの取り分のはずの十分の一税の穀物を横取りが慢性化して(特にアナニヤの取立てがひどかったという)、抵抗すると暴力沙汰になり、貧しい一般祭司には餓死者も出た。とわざわざ2回書いてあり、これ以外にミシュナーの『ホラヨット』3:1-4でも現職と前任の大祭司の違いとして「贖罪の日の雄の仔牛とエファの1/10に関してだけは違う」が他の収入内容や掟に従う行為は大祭司をやめても現役と同じとしているなど、大祭司は解任されても徴税権などは保持していた。 なお、ヨセフスや新約聖書の記述者たちは大祭司を意味する「αρχιερέας」を現役大祭司と大祭司経験者のほか、「ボエトスの子マッティアス」、「スケワ(スケヴァ)」という他に名前が出てこない人物に使用しているので大祭司の親族を含んでいる説があげられてる ユダヤ戦争時には(元)大祭司の殺害が幾度も起こり、少なくとも『ユダヤ戦記』によると前述のアナニア、アナノスの子アナノス、ガマリエルの子イエスの3人が反乱軍に殺され、反乱軍はファニアスという大祭司の家系と全く関係ないものを勝手に任命(とヨセフスは書いているが『ユダヤ古代誌』第XX巻10章1節で一応歴代大祭司の人数には数えている。)した、70年にエルサレム神殿の破壊により大祭司の地位は消滅した。
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