新しい南部 1877年-1913年
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「バージニア州の歴史」の記事における「新しい南部 1877年-1913年」の解説
レコンストラクションに続く混乱の時代である1870年代後半に、バージニアでは再編党という政党が生まれた。いわゆる再編主義者は「富者の権力と確立された特権を破壊する」ことを目指し、公共教育を促進した。ウッドストックの弁護士ハリソン・H・リドルバーガーと元南軍の将軍で幾つかの鉄道会社の社長であるウィリアム・マホーンが指導した。マホーンは1870年頃から再編党が保守的民主党に支配権を譲る1883年まで、バージニア政界を支配した。 1870年代にはバージニアの政治家の間に分裂が起こった。バージニアの戦前の負債を減らすことを支持する者達(再編党)と、バージニアは全負債を利子を付けて支払うべきと考える者達(資金党)であった。戦前の負債とはバージニア公共事業局が監督した運河、道路、および鉄道といった主に公共設備の改良に対するものだった。1861年以前、州は有料道路、有料橋、運河、および水路と鉄道の輸送事業について4,800万ドル相当の株式を購入した。これらは南北戦争中に北軍によってひどく損傷を受けるか破壊された。これらの残っているものはほとんどウエストバージニア州となった地域に位置しており、「北部の者」が負った負債ということで、その償還を複雑な問題にした。 マホーンは1877年に民主党の知事候補になろうとして失敗した後、再編党の指導者となり保守的民主党と連携した。共和党と黒人は戦前の負債の削減と、新しいウエストバージニア州となった地域への負債の適当な割り付けを求めていた。それから数十年間、両州はバージニア政府の負債のうちの新しい州の取り分について論争した。この問題は最終的に1915年に決着がついた。この年合衆国最高裁判所はウエストバージニア州がバージニア州の負債$12,393,929.50を受け持つと裁定した。この負債の最終支払は1939年のことだった。 再編党は州の負債の「再調整」を約束し、人頭税を撤廃し、学校や他の公共施設に対する予算を増やすことを約束した。知事候補としてウィリアム・E・キャメロンを擁立して成功し、キャメロンは1882年から1886年まで務めた。マホーンは1881年から1887年までアメリカ合衆国上院議員を務めた。しかし、合衆国議会では主に共和党に接近した。1883年から1889年まで上院議員を務めた再編党の仲間ハリソン・H・リドルバーガーも同様だった。両者の上院議席は民主党に奪われた。 再編党のバージニア州政界支配は1883年まで続き、この年州議会の多数派の地位を失い、続いて民主党のフィッツヒュー・リーが1885年に州知事に選ばれた。マホーンは政界で活動を続けたが、上院議員への再選に失敗し、知事選(共和党員として)も落選した。リドルバーガーは1890年に、マホーンは1895年に死んだ。 再編党が消滅した後、バージニアはその後の80年間州の民主党の白人一党支配となった。白人による州議会は有権者登録を制限する法律を成立させ、白人の優越を取り戻し黒人による投票を減らした。1902年、バージニアは新しい憲法を採択し、人頭税と識字試験によって実質的に黒人の公民権を奪う有権者登録を定めた。南北戦争以来黒人が得たものや戦前の多くの教育を受けた自由黒人がいたにも拘らず、1904年の大統領選挙で黒人の投票率はゼロになった。公民権の剥奪は決定的なものであり長く続いた。1964年と1965年の連邦政府によつ公民権法の成立まで、黒人は選挙権を復活させ、他の基本的公民権を守る術は無かった。
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