文章博士の設置とは? わかりやすく解説

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文章博士の設置

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 19:46 UTC 版)

紀伝道」の記事における「文章博士の設置」の解説

初期大学寮においては儒学教え明経道中心とされ、律令教え明法道算術教え算道実務的観点からこれを補う構造であった考えられている。ただし、秀才進士選考する際に文選爾雅から問題出されていたことが、『令集解』の内容から判明しており、文学など教育課程には組み込まれいたもの考えられている。 神亀5年7月21日728年8月30日)に、文学教える官として明経直講(明経博士別枠)から1名が割かれ令外官である文章博士もんじょうのはかせ、正七位下相当)が設置され2年後天平2年3月27日730年4月18日)には文章生もんじょうのしょう)20名が設置され、更にその中から優秀者2名が文章得業生もんじょうとくごうしょう)が選出され文章博士候補生とされた。ただし、当時大学教育は唐の制度倣って儒学教え明経道中枢置いて技術科目である算道を副として置いていたが、官吏登用規定定めた選叙令においては秀才明経進士明法」の4種試験定められており、明経以外の3科の試験定めながら実際に機能していなかった(当時日本には私立学校相当するものはなかったため、大学寮以外で官吏登用受験者育成できる組織・機関存在しなかったとされている)。そのため、方略策(国家戦略)を論じ秀才時務策政策一般)を論じ進士受験者育成するために文章博士明法受験者育成するために明法博士設置されたとされ、大学寮における当初の両博士立場あくまでも明経道補完するものでしかなかったと考えられている。また、文章生当初はその資格を「白丁雑任の子弟」に限定されて、貴族子弟明経生それ以外文章生という明確な格差定められていた。逆に言えば才覚認められれば、下級官人庶民の子弟でも文章生になることも可能であった事実において、地方官において最下級の大目の子春澄善縄文章生から文章博士経て参議昇進しており、弘仁3年812年)に紀伝博士在任のまま大学助任命され勇山文継は、その半年前に初めて連の姓を受けていることから、白丁庶民あるいはそれに近い身分)のまま大学寮入ってその教官地位に就いていたもの考えられている。なお、異説として白丁雑任の子弟に限定されていたのは元来官人ではなく宮中詩人育成のための学科であったとする説もある。また、文章道」の名も通称に過ぎなかったあるいはそうした称す無かったと言われている(そもそも大学寮において学科の名称が公式に採用されたのは、遥か後世貞観年間明文化され初出を『貞観式』とする)説もあり、これを採用すれば文章科」というものはあっても「文章道」は存在しなかったことになる)。 天平7年735年)に遣唐使として渡って帰国した吉備真備が唐より中国正史まとまった形で持ち帰った吉備大臣三史)のを機に文章博士歴史をも合わせて講義することになった中国正史紀伝体書かれていたことから、「紀伝」とも呼ばれそれが歴史(学)代名詞となった

※この「文章博士の設置」の解説は、「紀伝道」の解説の一部です。
「文章博士の設置」を含む「紀伝道」の記事については、「紀伝道」の概要を参照ください。

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