文学座と合流
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1949年(昭和24年)に桜町病院を退院した後は、自宅で療養生活を続けた。病床に伏しながら、ウィリアム・サローヤンの戯曲『君が人生の時』を翻訳し、ラジオ短評を『時事新報』に書いた。 同年3月には、前年発表の戯曲『挿話』が文学座により上演され、これが加藤の劇作の初上演作となった。この『挿話』上演を機に「麦の会」は正月から文学座に合流し、加藤は文学座の座員となった。 同年4月から文学座付属の「演劇研究所」が開校され、加藤と芥川は岸田国士から、俳優の教育を任された。加藤らが入座した当初、文学座は柄の悪い連中が多かった。 加藤は研究生らに、シェイクスピアの朗読を英語で聴かせ、フランス文学者の内藤濯が中原中也や三好達治を題材にして耳から入る日本語の美しさについて講義し、己の裡に内的世界を持つ「新しい俳優」を育てようとした。加藤の演劇的理想に対する共鳴や、その人柄に惹かれた研究生たちは次第に活気を帯び、のちに「加藤道夫の神話」と言われるほど若い俳優に影響を与えていった。 一、俳優が芸術家ならば、詩人が常に己れの内面に詩的世界を持っている様に俳優もまた己れの意識の裡に演劇の本質に基いた厳密な言葉とヴィジオンの内的世界を持っていなければならぬ。二、「描写」偏重を棄てよ。「描写」というものは実証的な客観的知性だけで出来るごくつまらぬものだ。三、「表現」せよ。「表現」となると強烈な主観的知性が働かなければ不可能である。新しい俳優の魅力を決定するものはこの主観的知性である。 四、芸術家が共産党員であっても一向差支えないはずだが、外的な政治意識と内的な芸術意識とは悲劇的に相容れない関係にある。 — 加藤道夫「新劇への不信」 同年6月、芥川比呂志の初のプロ演出作『アンチゴーヌ』(ジャン・アヌイ原作)が上演された毎日ホールのロビーで、加藤は矢代静一から、劇作をし始めた三島由紀夫を紹介され、以後親交を結んだ。矢代もこの月に俳優座を辞めて文学座の研究生となった。年下の矢代や三島は加藤のことを「加藤さん」と呼び、芥川は「道ちゃん」と呼んでいたという。 同年9月、加藤は倉橋健と共訳したサローヤンの『我が心高原に』を文学座アトリエのために演出。この作品が初のプロ演出作となった。また、1幕物の「天邪鬼(あまのじゃく)」を雑誌『少年少女』に発表、主人公が自殺するというシーンが議論を呼んだ。評論「新劇の動向」を雑誌『再建評論』に、放送劇「誰も知らない歴史」を雑誌『日本演劇』に発表した。この年には、出身校の慶應義塾大学の講師となった。
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